「ジプシー歌集」

坂東 芙三次による連続観劇レポート

ガルシーア・ロルカ「ジプシー歌集」
2019年5月27日(月)
会場:綜合藝術茶房 喫茶茶会記

 部屋が闇に包まれると、パコ・デ・ルシアのギターが軽やかに鳴り、白い文字で詩集のタイトルが投映される。

ジプシー歌集

Romancero gitano

 堂々たる男が現れる。右耳に揺れる金色のイヤリング。濃紺に染めた上衣の左袖にはフリンジの縁取り、腰元には黒地に鮮やかな花模様を散らした布が左右柄違いで縫い付けられ、足元までしなやかになびいている。歩き回ると、左足に金をがっしりと編んだようなアンクレットが光って見える。

 フロアを大きく公転しはじめ、徐々にスピードと熱量を上げていく。

 最初の詩のタイトルが、これも白い文字で投映された。

1.月よ、月よのロマンセ(*1)

鋭いターンや不規則なステップに乗った熱がフラメンコを偲ばせるような、もっと別のよろめきやもがきが偶然そう見えたような、切実な体がそこに現れ、ふいに語りだす。遠く大きな者の発するような声で。

月は甘松ナルドのもすそ当て〔ポリソン〕をつけ
鍛冶場を訪れた
子供は月をしげしげと見る、
子供は月をひたすら見つめる。
ふるえる空気の中で、
月は両腕をうごかして、
みだらに、しかも清らかに
堅い錫の胸を見せる。

男は月を演じない。冷静に暗誦するのでもない。この場面を五感で肉体に引き受けて、声を出し、息をし、うごめいている。

オリーブの畑を通って、
青銅と夢の、ジプシーたちがやって来る。
頭をきっと起して
半ば眼をとざしながら。

この詩では、鍛冶場にいた一人の子供の死が描かれている。誰かの心に入り込むのではなく、叙事的に。人の死は人間だけのものではなく、世界とともにある。

鍛冶場の中では、声をあげて、
ジプシーたちが泣きわめく。
そよ風は月を守もる、
そよ風は月を見守っている。

 男は語り終えると、動きをやめた。

2.プレシオーサと風

羊皮紙の月を鳴らしながら
水晶と月桂樹の
水と陸にまたがる小路を
プレシオーサがやって来る

プレシオーサは若い娘、タンバリンを携えてやって来る。たぶらかそうとするのは「天空の無数の舌を一杯にはらん」で吹き起こる風だ。

――娘さん、お前さんの服をまくって
からだをわしに見せてくれんかな。
わしの年老いた指の中で
あんたのお腹の青い薔薇の花をお開き。

男は風のささやきを演じているようにも、風のささやきを感じているようにも見える。人が、衝動を風になぞらえるのはどうしてなんだろう。風。
さっきからずっと見ている男の声、息、うごめき全体から風を感じることもできる。

フラメンコの歌唱形式の一つ「カンテ・ホンド」には、風を巨人として人格化する表現がある(*2)。ロルカはこれを「風のふしぎな具体化」「すばらしい詩的現実」と講演の場で述べている(*3)。

走れ、プレシオーサ、プレシオーサ、
そら、ひひ風につかまるぞ!
走れよ走れ、プレシオーサ!
どこからやって来るか、気をつけろ!
光かがやく舌をたらした
下卑た星々のサテュロス奴が。

風は詩のなかで、屈強な大男の姿でスペインの伝承に残る(*2)殉教者「サン・クリストバロン」や、若く美しいニンフたちを襲う半人半獣の神「サテュロス」の名でも呼ばれる。

欲望に駆られた男が若い娘を追い回した。素朴なストーリーは詩の空間で、自然・伝説・神話と重層的に結び合わされている。

語られる全てのイメージが完全な形で私たちの脳裏にひらめかなかったとしても、匂いを感じることはできる。アンダルシア風の、キリスト教世界風の、ギリシャ風の。

それは理解ではないかもしれない。憧れや夢を抱くことを許された隙間としての、あそび。私たちに自由を与えてくれる隙間。

ひたすら恐怖にかられたプレシオーサは
松林のずっと高みにある
イギリスの領事が持っている
家の中へとびこむ。

娘は家の中でジンを勧められるが、飲まない。その描写に純粋なアンダルシアのジプシー娘としての誇り高さを読み取る説もある(*2)。

3.あらそい

窪地のまん中で
アルバセーテの匕首あいくちが
相手の血で美しく、
ちょうど魚のように光る。

男の語りはギラギラしている。

「アルバセーテの匕首」とは、バネと刃止めのついた細長い折りたたみ式ナイフのことで、スペイン南東部アルバセーテの特産品。この詩ではその形状から、争いを見守る死の天使たちの翼にもイメージが重ねられている(*2)。

黒衣の天使たちが、
手巾と冷たい水を持って来た。
アルバセーテの匕首の
大きな翼の天使たちだ。

ロルカは17、8歳の頃、住んでいたグラナダ市の郊外、サクロモンテの丘にある集落でジプシーたちと親しくなった。その伝承や民話を教わり、音楽を採譜し、旋律に合わせて詩を書き、ときには読んで聞かせたこともあったという(*4)。

彼らの文化に深く傾倒する一方、ジプシーと同一視されたり、ジプシー詩人と呼ばれることには抗議した。しかし詩集を刊行するさいには『ジプシー詩集』と名付ける。それはロルカが詩のなかで「アンダルシーアを歌っているから」であり、ジプシーが「アンダルシーアの最も純粋で最も真実の表現に他ならないから」だとする(*5)。

モンティーリャ生れのフワン・アントーニオは
死んで斜面をころげ落ちる、
死体はいちはつの葉のような切傷だらけ、
こめかみにはざくろの実が一つ。
今や死の大道に
火の十字架を掲げるのだ。

人が死んだ場面だけれど……男の語りは苦しみを反映しながらも、決して残念そうではない。血を流す闘いの興奮、それを語る喜びのほうがよほど強く伝わってくる。

ロルカは終生、軽い歩行障害を持っていた。生後二ヶ月で病気にかかり、歩き出すのが遅れ、後遺症が残った。幼い頃から家族を巻き込んで、教会の司祭を真似て「ミサ遊び」をしたり、人形芝居のミニチュアセットで遊んだりしていた。追いかけて走れない代わりに、詩や戯曲をしたためて語り、友人を魅きつけるよう努力したというエピソードもある(*4)。

幼い少年たちのことだ、熱中する遊びのなかには「たたかいごっこ」があったかもしれない。幼いフェデリコがそこへ参加できない代わりに、闘いの一幕を雄々しく語っていた姿を思い浮かべてしまうのは、私の想像しすぎだろうか。

判事が警察隊員を伴って
オリーブ畑を抜けて来る。
したたり落ちた血が
蛇〔くちなわ〕の無言の歌をうめく。

闘いのモチーフは、死と隣合わせの生活を描くとともに、ジプシーの、そしてロルカの美意識を象かたどっている。ロルカはジプシーではない。アルバセーテの匕首で闘える肉体も持っていない。本物の決闘には参加できない代わりに、詩を書くことができる。その言葉を育んだもののなかには、憧れと夢があったのではないか。

ロルカとジプシーとの距離感は、私たちと『ジプシー歌集』、あるいは私たちとジプシーとの距離感と、もちろんイコールではない。男と『ジプシー歌集』、あるいは男とジプシーとの距離感ともイコールではない。ただ、喜び勇んでうごめきながら闘いの詩を語る男の姿を見ていると、ロルカの憧れと夢が、少しだけ想像できるような気がするのだ。

それも一つ、私たちに自由を与えてくれる隙間、あそびなのかもしれない。

4.夢遊病者のロマンセ

緑色わたしの好きな緑色
緑の風、緑の枝よ。
海の上には船。
山の中には馬。
腰には影をおき、
娘は欄干で夢をみる。

男は最初、喜びに満ちた様子で語りだす。

緑色を愛する「わたし」とは、欄干で夢をみる娘のことなのか。ジプシー娘の心と自分の心を重ねたロルカ自身、あるいはこの詩の語り手としての「わたし」として読む解釈がある(*2)。

緑の肉体、緑の髪、
冷たい銀色の眼、
緑色わたしの好きな緑色、

「緑色」は、生命や自然の色、愛の色、死の色など、いくつもの意味に変容しながらこの詩に繰り返し現れる(*2)。

おやじ、おれの馬をあんたの家と、
おれの鞍をあんたの鏡と、
おれの短剣をあんたの毛布と
おれに取りかえてもらいたい。
おやじ、おれはカブラの狭間〔はざま〕から
血を流しながらやって来たんだ。

男の口調がたくましい若者のそれになる。海の上の船で、恋人が娘の父親に語りかけている。カブラの峠は「かつて密輸業者や山賊たちの通り道として有名だった」場所(*2)。若者はなにかの経緯で重症を負い、そこから戻ってきたのだ。

馬・鞍・短剣は一人前の男として生きるのに必要な道具。瀕死の若者は今それらを手放して家へ帰りたいと訴えている。しかし、「ふつう馬の上か床の上かで死ぬ運命にあるジプシーにとって、そのような死に方は夢」である(*2)。

 ――わしに出来ることなら、若い衆、
このはなしは出来あがっていたろうよ。
しかし、わしはもう昔のわしじゃない、
わしの家も、もうわしの家じゃない。

このときだ。男は十字架のように両腕をぴんと伸ばし、モノのような体で「おやじ」の言葉を語った。

これはいかようにも解釈できるだろう。「おやじ」を若者の運命の代弁者と捉えるもよし、若者の死が決定的に近いことを感じるもよし、この二人が密輸業者だという解釈に沿ってアダムとイヴの原罪を想起するのもよい。

私の目には男の体が、十字架のイメージをはらんだ、船のマストに見えた。若者は船に立てられた十字の木に向かって話している。「おやじ」はカブラの峠で死んだか、ずっと前から同道していなかった。妄想ではない。風の音や海のうなりのあいだから、彼にはいま「おやじ」の言葉がありありと聞こえているのではないかと思い、戦慄したのだ。

――お前の白いシャツの胸に、
三百の赤黒いバラの花。
お前の血は帯のあたりに
にじみ出て匂っている。
だが、わしはもう昔のわしでもなければ、
わしの家も、最早わしの家ではない。

「おやじ」の言葉が幻聴だという説に共感してもらうのは私の眼目ではない。この現象をきっかけに、『ジプシー歌集』との向き合い方に発見があったことを伝えたい。

キリスト教や神話にまつわる象徴が詩のなかに現れるとき、それらに深く親しまない者が瞬発的に感動するのは困難だ。注釈で意味を理解して表現の見事さに感嘆することはできても、象徴の中身そのものにその場で猛烈に心を動かすにはなかなか至らない。

人の体を介して受け取るとき、詩の言葉にあそびができる。書かれた通りに語る以上、本筋を大きく外れることはないが、誤解の余地が生まれる。この詩を文字で読んでいるときに、若者の話している相手が船のマストだなんて、まさか思わない。

そしてややズレた拍子に、たとえば十字架のようなポーズから自然とキリストの気配を感じることも起き得る。クリスマスや海外旅行中にだけ感じる都合のいいキリストなのかもしれないが、瞬発的な感動そのものは本物だ。

今や二人の仲間は
高い欄干に向って登る
ひと筋の血の跡を残して、
ひとすじの涙の跡を残して。

話はそれだけで終わらない。二人が欄干に登ると、そこに娘はいなかった。若者の到着を待たずに命を落としたのだ。

雨水溜め〔アルヒーべ〕の水面で
ジプシーの娘はゆれていた。
緑の肉体、緑の髪、
冷たい銀色の眼を見開いて、
一本の月の氷柱つららが
娘を水の上に支えている。

無宗教を自称する人も今のところ「人間を超えるもの」の存在を否定するわけにはいかない。その一つはもちろん、死だ。

男は「おやじ」の言葉を、モノのような体で語った。人は死んだらモノになる。船のマストのように。不思議な転倒だと思う。生きた人間の体を介して語られることによって、ロルカの詩に通底する死が思わぬところで生々しく花開く。あそびの内に、憧れと夢をはらんだ隙間のなかに。

キリスト教や神話への実感は持ち合わせなくても、死の気配とともにそれらを受け止めるとき、なぜかぎょっとするほどの手応えを持ち得る、その可能性。

体はモノのように無言である。

5.ジプシーの尼僧

石灰と天人花の静寂
細い草の間にぜにあおい
尼僧は麦わら色の布地に
あらせいとうを刺繍する

語りはたおやかに優美に始まる。

尼僧は粗末な布地にあらせいとうの花を刺繍している。空想のなかには、向日葵、泰山木、サフランの花や月の華麗な姿が浮かんでいる。

尼僧の目の中に
二人の騎手が疾駆する
一つのおし殺した最後の物音が
尼僧の下着をたるませる

尼僧にも、女の肉体がある。彼女は遠くの雲や山々を見つめ、太陽の強い光に照らされた平原や川へと幻想は広がる。

しかし尼僧はなおも花々の刺繍を続ける、
そのひまに、微風の中で
垂直な日光は網戸の高いところで
象棋をさしている。


6.不貞な人妻

そしてわたしは生娘〔きむすめ〕と思いこんで
女を川のそばへ連れて行った、
しかし女には亭主があった。

この詩はなんの前触れもなく、話の途中から始まったように書き出されている。本で読んでいるときには、読者をさっと引き込んだり、背景にもっと長大な時間の流れを感じさせたりする効果を感じるに留まっていた。

さっきまで「ジプシーの尼僧」を語っていた同じ人の体から伝えられたときはじめて強烈に、この二篇が並べられているコントラストと、おかしみを感じた。

それは聖ヤコブの夜だった、
しかも殆ど合意の上だった。

男は、聞かれてはならないことを告げるような親密な調子で語る。
『最後の晩餐』にも描かれているキリストの十二使徒の一人、聖ヤコブの祝日は7月25日。今は夏の祝日の夜だ。

最後の曲り角で
わたしは女の眠った胸にさわった。
するとヒヤシンスの花束のように、
それはたちまちわたしのために開いた。

尼僧は夢見る姿で私たちに夢を観させた。叶えられない願望の向こうにある、飼い殺しの肉体から色気をただよわせて。

茨と藺草いぐさと
さんざしを踏みこえて、
女のほどけた髪の下で
わたしは泥に穴を掘った。
わたしはネクタイをとる、
女は着物をぬいだ。
わたしは、ピストルのついた革帯を、
女は、四枚の肌着を。

女は体を開くことに積極的である。二人は交わった。「わたし」はそれを「すばらしい」ものとして振り返るが、女がその夜語ったことは口外したくないという。

血筋正しいジプシーとして、
わたしはそれらしくふるまった。
藁色の繻子しゅすで作った、
大きな縫いもの籠を女に贈った。

縫いもの籠はジプシー女の仕事である裁縫の道具、あるいは家庭を連想させる(*2)。刺繍する尼僧へもゆるやかにイメージがつながる。

しかし恋しようとは思わなかった、
女を川へ連れて行ったとき、
ちゃんと夫を持っていながら、
生娘だと言ったのだから。

生娘だと思ったのに、不貞な人妻だった。本当に?

娘がどうして(生娘だとしたらいっそう)、ここまで男が語ったように、欲望に身もだえしたり、あらわに肌を出したり、会ったばかりの男と夜の川辺で交わり合ったりするだろうか(スペイン  は戒律がきびしいカトリックの国である)。人妻ならではの振舞いであり、男の自慢話くさい。(*2)

無粋なようだが注目に値する指摘なので引用した。ストーリーの真偽を追求する気はない。興味深いのはこの矛盾そのものだ。生娘や尼僧は夢を観させてくれる。本当はみだらなんじゃないか? 俺の体を熱く求めてるんじゃないか? しかし、そうそう簡単に抱けるわけがない。まして、ことに及ぶときはなぜか手練れていて俺の体を前に乱れまくって……というのは良くも悪くも、夢である。そんな処女は実在しない。

「恋しようとは思わなかった」と「わたし」は言うが、川べりで抱いた人妻ではなく、今考えた「実在しない女」についてはどうなのだろう。出会い得ない相手には、一生傷つかないまま恋していられるのかもしれない。

「ジプシーの尼僧」は優美に、「不貞な人妻」は夜の秘めごとらしく。対比の効いたトーンで並べて語られることで、二篇の詩にまたがる矛盾、夢、おかしみが体感的に伝わってくる。その構造がはっきり見えたことには、男の語りが「不貞な人妻」の主人公「わたし」にゆるやかに寄り添い、心の流れをてらいなく立体化した働きが大きい。

7.黒い悲しみのロマンセ

前の場面設定に近い、暗い夜を歌う詩だが、語りのトーンは厳かに切り替わる。

雄鶏どものくちばしが
夜明けをもとめて地面を掘る
そのころ暗い山から
ソレダー・モントーヤが下りてくる

最初の二行は「夜明け前の雄鶏たちの鋭く尖ったように聞こえる鳴き声の詩的表現」(*2)。辺りはまだ暗く、雄鶏の声がけたたましく響くなか、一人の女が山を下りてくる。ジプシーの典型的な人名であると同時に、ソレダー(soledad)は「孤独・寂寥感」などの意味を持つ。モントーヤ(Montoya)は、「黒い悲しみ」を暗示する「暗い山」の「山(monte)」と音で響き合う(*2)。ソレダーは黒い悲しみから逃げるように、夜明けを求めて歩いている。

ロルカは講演で「黒い悲しみのロマンセ」にこう言及している。

癒やすすべない「苦しみ〔ラ・ペーナ〕」、左側にとても深い一つの穴をナイフで開けることによってしかそれから逃れることのできない黒い苦しみ〔ラ・ペーナ〕の具体化である、ソレダード・モントーヤのあの夜が、姿を見せます。(*3)

「苦しみ〔ラ・ペーナ〕」とは、本公演使用の訳で「悲しみ」とされている“la pena”のこと。死ぬまで逃れられない「苦しみラ・ペーナ」とはなんだろう。

ソレダード・モントーヤの「苦しみ〔ラ・ペーナ〕」はアンダルシーアの民衆の根なのです。それは苦悩〔アングステイア〕ではなく――人は苦しみと共にありながら微笑することもできるのですから――、人を盲目にする苦痛〔ドロール〕でもなく――苦しみ〔ペーナ〕は決して人に涙を流させることがないのですから――、それは対象のない熱望であり、アンダルシーアの永遠の関心事である死が扉の後ろで呼吸しているという確信を伴う、虚無への鋭い愛なのです。(*3)

そしてこのモチーフは『ジプシー歌集』全体を通して「ただひとりの登場人物」であると、ロルカはこの講演や別の場で語っている。

わたしの本の中には、ただひとりの登場人物しか存在しないのです。この作品の中を初めから終わりまで埋めつくしているただひとりの登場人物です。その登場人物は、悲しみとも苦悩とも絶  望とも全く関係のない《苦しみ〔ラ・ペーナ〕》です。この苦しみ〔ラ・ペーナ〕は内面的な奥深い影のようなものです。それは大地のものというよりはむしろ天上のものでありましょう。(*5)

ロルカ自身の言葉によると……「苦しみ〔ラ・ペーナ〕」とは、苦悩・苦痛・絶望・悲しみとは全く異なるもの。「苦しみ〔ラ・ペーナ〕」とは対象のない熱望、死への認識を伴った「虚無への鋭い愛」、「内面的な奥深い影のようなもの」、「大地のものというよりはむしろ天上のもの」ということである。

――ソレダー、つれもなしに、こんな時刻に
お前は誰をたずねている?
わたしが誰をたずねているとたずねたところで、
ねえ、それがお前さんに何だというのさ?
わたしは、探したいものを求めて来たのさ、
わたしの喜びとわたしという人間を。

この詩にはこの先、分かりやすいストーリー展開は与えられておらず、主人公が物理的にどこかへ到着したり、行き倒れたりする描写はない。「苦しみラ・ペーナ」にまつわる対話がさまざまに続き、夜明けの暗示で閉じられる。

ところで、ソレダーに呼びかけているのは誰だろう? 詩集の他の作品を参考にすれば「詩の語り手(として仮定された人物)」と推測するのが妥当だ。が、この詩についてはとりわけ、もっと自由に想像されてもよい気がする。夜明け前の山を一人で下りているとき、声が聞こえる。誰の? ソレダーは「苦しみ〔ラ・ペーナ〕」という観念を具体化した「孤独」という名の女である。

――おれの悲しみのソレダーよ、
くつわを外された馬は
やがては海を見つけだす、
すると海の波に呑まれてしまうのだ。

男は冒頭から一篇一篇、言葉を五感で肉体に引き受けるかのようにうごめき、語り続けてきた。演じるように感じるように、登場人物との距離感を自在に変えながら、ゆるやかに寄り添ってきた。そこで示される「誰か」や「なにか」は、閉じた輪郭を持たず、ともに描かれる自然や人工物、伝説や神話、作家の心と溶け合っている。それは詩が紙の上で歩むときの戦い方に似ている。

男が一人で体を張っている姿を眺めていると、ソレダーも終始一人だった可能性に思い至る。妄想や自問自答をしていたという意味ではない。声は実際にソレダーの意識の外部から聞こえていた(*6)。ただ、聞こえた声の主が暗い山にせよ作家にせよ祖先にせよ、みな元をたどれば水面下で彼女と一つにつながっている(*7)。ソレダーがどこへ歩いて行ったとしても、声の主から離れることはない。

はるか下の方で川が歌う
川は空と木の葉のすそ飾り。
新しい光は
南瓜の花の冠を戴く。

「南瓜の花」の黄色は太陽の光や歓喜の色である一方、スペイン語の「南瓜」(carabaza)には「dar carabasa a……(〔人を〕落第させる。好意を退ける。肘鉄を喰わせる)という表現があり、自然界に朝がやって来ても、ソレダードやジプシーたちが〈黒い苦しみ〉から解放されるわけではないことも暗示されている」とする説がある(*2)。

朝の光が差し込むとき、歌うのは川だけで、あの声とソレダーとは、もうなにも話さない。

おお、ジプシーたちの悲しみよ!
清らかな、いつも孤独の悲しみ。
おお、隠れた河床と
はるかな夜明けの悲しみよ!

この詩が夜明けとともに終わるのは、そのときソレダーも姿を隠すからだというのは考えすぎだろうか。

8.聖ガブリエル

聖ガブリエルとは、マリアへ「受胎告知」しに訪れるあの天使だ。

肩幅ひろく、姿やさしい、
夜のりんごの肌はだえ、
悲しい口、大きな眼、
灼熱の銀の神経、
藺草〔いぐさ〕のような美しい少年が
人影ない街路を歩く。

これらの描写に「理想化されたジプシーの美少年」の形容を読み取る解釈がある(*2)。聖ガブリエルに、ジプシーの美少年のイメージが重ねられている。町を歩き回るガブリエルは、その大事な役目を果たすよう呼びかけられる。

聖ガブリエルよ、子供が
母親の胎内で泣いている。
そなたに着物を贈ったのは
ジプシー達ということを忘れ給うな。

聖母マリアになぞらえられたジプシーの娘が、先触れの星と聖ガブリエルを迎える。

 ――神の加護なんじの上にあれ、受胎告知よ。
奇跡の美しい乙女よ。
お前はそよ風の若芽よりも
美しい稚児を産むだろう。
(*8)

今ここで伝説を生きているようなビジョン。ジプシーの子の命は、始まりからキリストとともにある。

9.セビーリャへの道でアントニート・エル・カンボリオの捕縛

カンボリオ家の息子で孫の
アントニオ・トーレス・エレディアが
柳の小枝を手に持って
セビーリャへ闘牛を見に行く。

アントニオは道中、レモンを刻んで川に投げ込んでいたところ、五人の「国道警察兵」に連行される。

――アントニオ、お前は何者だ?
カンボリオと名のるからには、
五つの流れる血潮で
泉をつくったにちがいない。
いや、お前は誰の子でもない、
ましてカンボリオの出でもない。

この呼びかけは、カンボリオ家の一員であるならば警察兵の血の泉を作っていたはずではないか? という非難である。

もはや、ただ一人きりで
山に行ったジプシーたちは跡をたったのだ!
昔の匕首あいくちだけが
埃にうもれてふるえている。



10.アントニート・エル・カンボリオの死

男は奥の壁にもたれ、けたたましい笑い声を立てる。そして大声で叫んだ。

ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――

グワダルキビールの河畔で
死の叫び声が鳴りひびいた。
雄々しいなでしこの声を
取り囲むその昔かみの叫び声が。

先の詩でアントニオに非難を浴びせていた声は、ここでは称賛とともに呼びかける。

――アントニオ・トーレス・エレディアよ、
雄々しいなでしこの声を持ち、
緑色の月に似た浅黒い肌をした、
うなじ毛もこわいカンボリオよ、
グワダルキビールの河近く
誰がお前のいのちをうばったのだ?

アントニオは「四人のエレディア家のいとこ」と闘った。「あらそい」に出てきたのと同じ、四本の匕首で命を落とした。アントニオは、声の主に呼びかける。

――ああ、フェデリコ・ガルシーアよ、
国道警察兵を呼んでくれ!
玉蜀黍〔とうもろこし〕の茎のように、
もはやおれの体は折れたのだ。

これはもちろん、ロルカのことだ。詩のなかの人物がその名を呼ぶのは『ジプシー歌集』中、ここだけ。死にゆくアントニオへの共感、一体感が伺えるところだが、なにが彼らをそうまでさせるのだろう。

ロルカは幼少期から足に不自由を抱えており、友だちと駆け回る代わりに詩や戯曲を語り聞かせていた。もし少年たちの遊びに「たたかいごっこ」があったとすれば、代わりに闘いの物語を作ることでその世界に参加していたのではないか……という推測も先に見ておいた。

ロルカはジプシーではない。アルバセーテの匕首で闘える肉体も持っていない。血を流すジプシーとのあいだには距離がある。だがどうしてもそこへ向かっていくのだ。その原動力に、不可能なことへの夢や憧れが含まれているとみなすのは残酷だろうか。

血は三ヵ所からほとばしって、
かくて横顔を見せて死んだ。
二度と再び造られることのない
見事な貨幣のようなやつだった。

男はこの詩の最初、大声で叫んだ。その叫びは、男のものなのか、アントニオの? ロルカの? ジプシーの? 人間の? なんだかよくわからない一体感から発せられたものとしか言いようがなかった。

それから、フラメンコのギターとともに詩が語られているあいだ、言葉の向こうにずっと絶唱が聞こえるような気がした。日本語ではない、フラメンコの絶唱が。人はなぜ叫ぶのか、そのとき叫んでいるのは誰なのか。

11.スペイン警察隊のロマンセ

馬はすべて黒い
蹄鉄も黒い
マントのうえには
インクと蠟のしみが光る
彼らは鉛の頭蓋骨を持っている
それゆえに泣くことはない。

非情なスペイン警察隊が、平和な祭の晩にジプシーの町を訪れる。

町は恐怖を忘れて
家々の戸口をふやした
四十人の警察隊員が
その戸口から略奪になだれこむ。

スペインの警察隊(兵)は実際に、「法と秩序を守る強力な」存在であると同時に、「僅かな罪をも見逃さず、厳格すぎるほどに厳格な取り扱い方をすることで、ジプシーたちからは勿論、一般民衆からも恐れられていた」。ジプシーの町を襲撃した史実はないものの、「そのような警察兵イメージの、誇張されてはいるだろうが、リアルな反映」だとする解釈がある(*2)。

ロルカ自身は講演で警察隊について「この詩集で強烈で最も難しいテーマです(……)それが信じられぬほどに非詩的なものだからです。にも拘らず、それはそうではないのです」と言及している(*3)。

すべての屋根という屋根が
大地の畦になってしまったとき、
石の長い横顔の中で、
夜明けが肩をゆすった。

略奪だけではない。ロルカは警察隊をジプシーたちの町をすべて破壊する者として容赦なく描く。そして悪夢のなかで喪われた町を偲ぶ。

おお、ジプシーたちの町よ!
かつてそなたを見て、思い出さない者があろうか?
わたしの額にそなたをさがし給え、
月と砂のたわむれだ。

白い文字で詩集のタイトルが投映される。

Romancero gitano

男はパコ・デ・ルシアのギターに乗って激しく踊る。右耳に揺れる金色のイヤリング。濃紺に染めた上衣の左袖にはフリンジの縁取り、腰元には黒地に鮮やかな花模様を散らした長布が左右柄違いで縫い付けられ、しなやかになびいている。裾が風をはらんでまくれ上がるたびに、左足に金をがっしりと編んだようなアンクレットが光って見える。

鋭いターンや不規則なステップに乗った熱がフラメンコを偲ばせるような、もっと別のよろめきやもがきが偶然そう見えたような、切実な体がそこに現れる。ふいに銃声が鳴って、男は倒れた。

作家が38歳の若さで銃殺された史実を連想するのはもちろんなのだが……反射的に、別の印象を持った。今銃弾に倒れたのは、ロルカそのものではない。匕首を手に闘い、女を求め、血を流して死ぬ幻のロルカの体、幻のジプシーなのではないか。たとえばそう考える自由がそこに開かれている。

あらゆる国々で、死は一つの終わりです。死がやって来ると、幕が引かれます。スペインでは、そうではありません。スペインでは幕が上がるのです。そこでは多くの人々が、自分の死ぬ日が  やって来て自分たちを太陽の下に引き出してくれる時まで、壁に囲まれて暮らすのです。(*9)

フェデリコ・ガルシーア・ロルカは、夜明けの光を浴びながらオリーブ畑で撃たれて死んだ(*4)。黒い悲しみのロマンセが夜明けとともに終わるように。私たちは太陽の下で、詩を読んでいる。



*1 本公演で上演されたのは、F・ガルシーア・ロルカ(会田由)『ジプシー歌集(平凡社ライブラリー)』平凡社、1994年。本稿でも以下、詩の引用は全て同書籍から行う。
*2 小海永二『ロルカ「ジプシー歌集」註釈』有精堂出版、1996年。
*3 フェデリコ・ガルシーア・ロルカ(小海永二)「ジプシー歌集(講演)」、前掲書に全文所収。
*4 小海永二『ガルシーア・ロルカ評伝』ファラオ企画、1992年。
*5 フェデリコ・ガルシーア・ロルカ(小海永二)『人類〈ウマニタート〉』紙、バルセローナ、1935年10月12日号、前掲書。
*6 幻聴は、その内容全てが単なるデタラメだとは言い切れない。たとえばこんな学説がある。人類は紀元前1,000年頃に初めて「意識」を獲得。それ以前には亡くなった王や神々の声が右脳で生成され、それを左脳が聞き取って行動の指針としていた。その命令は個人的な妄想ではなく、共同体が蓄積する規範や知識から脳で適切に導き出されたものだった。「意識」の発生、文字の発明とともにその機能は急速に衰え、風の音が響く谷や深山などの特別な場所や儀式の設え、文盲の娘を巫女に立てることなどでようやく「声」を聞き取れる時代に入った。大胆な説であるがそ本は「20世紀で最も重要な著作のひとつ」と評されている(ジュリアン・ジェインズ(柴田裕之)『神々の沈黙――意識の誕生と文明の滅亡』紀伊国屋書店、2005年)。

余談だが、意識を獲得して久しい現代にあって、「お告げ」を媒介に共同体の知の集積へアクセスする機能が働いている実例の一つに、チベットにおける「ケサル大王伝」の語り部の“自然発生”が上げられる。文盲の牧童として暮らすなか、彼らはある日、山の神から「お告げ」を受け、しばしば数日間の錯乱を経たのち、それまで一度も聞いたことのない内容を膨大に含む長大なケサル大王の物語をすらすらと歌い語れるようになる。語るときの集中法には、白紙の紙やなにも表示されていないiPhoneの真っ黒な画面を読み上げる、決まった姿勢を取るなどの違いがあるらしい(大谷寿一監督『チベット・ケサル大王伝〜最後の語り部たち〜』「ケサル大王伝」制作委員会、2019年)。
*7 暗い山とソレダーは同じ「黒い悲しみ(苦しみ〔ラ・ペーナ〕」の象徴である。ソレダーはそもそも、作家が自ら生み出したものである。祖先の声を共同体の知の集積から形成するのは、前項を踏まえればソレダーの脳である。したがって、彼女の対話する相手が暗い山・作家・祖先のいずれであったとしても、それはソレダーの外部に知覚されながら一つにつながった存在だという意。
*8 ジプシー娘の名前は「受胎告知」を意味するアヌンシアシオン(Anunciación)。訳されていると分かりにくいが、ここでは聖ガブリエルが「受胎告知アヌンシアシオンよ」と娘に呼びかけている。
*9 フェデリコ・ガルシーア・ロルカ(小海永二)「〈ドゥエンデ〉の理論と戯れ」(講演)、小海永二『ガルシーア・ロルカ評伝』ファラオ企画、1992年。

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