「海のオード」

坂東 芙三次による連続観劇レポート


F・ペソア「海のオード」
2019年6月21日(金)
会場:綜合藝術茶房 喫茶茶会記

辺りが暗くなると、水の音が聞こえはじめる。波が打ち寄せるザザッとした音、というよりも、すぐそばで水が揺れて砕けるようなジャバジャバした音。

ごくわずかに明るくなると、人影が見える。なにかの亡霊がそこにいるようにも、ヒトの抜け殻みたいなものがあるようにも、服を着た骸骨が立っているようにも見える。そのボンヤリした謎の存在に、たとえばインディ・ジョーンズなんかによく出てくる、探険に出かけたまま白骨になった名もない冒険者たちを想い起こすこともできる。

夏の今朝、ひと気の無い波止場で、独り
おれは港口へ目をやり、「得体の知れないもの」を見つめる
おれは見つめ、見ていて嬉しくなる、
小さく、濃淡二色の貨客船が入ってくる
(*1)

「おれ」は夏の日の朝、波止場で港に入ってくる船を見つめている。

深く響く声で言葉が語られる。

この貨客船が入ってくると、朝も一緒に入ってくる、川では、
あちこちで、海の生活が動きだし、
帆が上がり、引き船が進み、
港に停泊する船の後ろから小舟が姿をあらわす

言葉を語る人影は、いつしか微かに揺れている。生きているのか、風や波のせいでたまたま動いたのか判然としない様子で。

おれは遠くになにからも自由な魂をもったこの船を見る
そしておれのなかではずみ車がゆっくりと回りはじめる

「ボーッ」と霧笛が鳴り響くと同時に、人影はカクカクと動き始めた。さっきまでより明るくなった光のもと、今はそれが、たっぷりした白の上下に身を包む大男であることが分かる。

朝の港口に入ってくる貨客船の数々は
それとともにおれのまなざしに運んでくる
到着し出発する者の喜びと悲しみの神秘を
貨客船の数々は遠く離れた波止場の記憶と
他の港にいる同類の別様な瞬間の記憶を運んでくる

うごめきながら語る男の視線は、上ではなく下へ向かっている。言葉が定義するような、波止場に一人ぽつんと立って大きな港を眺めている構図ではない。まるで上空から俯瞰するような様子だ。

港湾を見下ろす創造神かゴジラか、あるいは積み木やレゴを並べて王者になった子どものような位置に目を置いている。

すべての船の接岸、出航は
――おれのなかを流れる血のように感じられ――
なにかを象徴するようで
形而上学的な意味を恐ろしいまでに突きつけているようで
おれのなかで自分がいったい誰だったのかということを混乱させる……

客席から見て右手側の奥、直方体の台の上で裸電球が光っている。男は光源に近づき、見下ろしながら語る。

ああ、すべての波止場は石でできた郷愁だ!
船が波止場を離れるとき
波止場と船のあいだに
空間が開いたことに突如として気づく、
なぜだかわからないが、真新しい苦悩が、
悲しみに満ちた情感の靄がおれに生じる

明かりの周囲を伝って動くと、大きな人影がゆらゆらと壁面にうごめいた。

ああ、もしかしたら、もしかすると、
おれがおれである前に、おれがかつて波止場から
出発したかもしれないではないか、夜明けの斜光に
照らされた船であるおれが
異なる類の港をあとにしたかもしれないではないか

この詩を書いたのは、フェルナンド・ペソア……の「異名」、アルヴァロ・デ・カンポスとされている。異名とはペンネームや偽名の使い分けではなく、ペソアとは別の人格なのだという。

カンポスの詩の重要な特色の一つは「すべてであろうとする。至るところに遍在し、あらゆる人、あらゆる事物であろうとする」こと(*2)。船に思いを寄せるだけでなく、船であろうとするところから、この詩は始められている。

そうなのだ、波止場から、ある意味で物質的で、
「実在の」、かたちを帯びた波止場から、現に在る波止場から、
おれたちが気づかないうちに模倣し、
知らないうちに呼び起こして手本とした「絶対の波止場」から、
おれたち人間はつくった
実際の水の上に本物の石でできたおれたちの波止場を、

ある意味で物質的で実在的な形を帯びた波止場とは、たとえば一つには母体であろう。全てのヒトはそこからの別離を経験している。来し方を認識する頃には到底そこへ戻れないほど大きくなっている。

その出航を多くの人は覚えていないが、別離の痛みだけは中身の見えない引き出しにしまわれていて、特定の光景に呼び起こされる。
たとえば家族の死、生まれた土地を離れる祖先の胸の内、恋人と引き裂かれた前世の記憶、別離の痛みとして想起するものは人によって違う。正しいという科学的な証拠がない代わりに、間違っているとも証明できない。

わけのわからぬ嗚咽を魂が漏らす

しわがれた、誰のものか分からない声で男はそう言った。

「ボーッ」と再び霧笛が鳴る頃、男は椅子に腰掛けた。それだけで不思議と、出航を想像させられる。空間が変容し、男は船に乗っているか、あるいはその様子を思い描いているように見える。

船乗りの一生!この海の人生のなかにすべてがある!
おれの血のなかにこの繊細な蠱惑のすべてが入り込み
おれはとりとめもなく旅立ちを夢想する

「おれ」は太平洋・大西洋・インド洋・地中海を讃え、キールやマストなどの航海具たちへ「おれの内なる生命」になれと言う。
男は客席の後方に移動すると、遠く呼びかけるように語った。

水がおれを呼び、
海がおれを呼び、
肉声をはりあげて、数々の遠方がおれを呼び、
過去に感じ取れたすべての海の時代が呼んでいる
イギリスの船乗り、わが友、ジム・バーンズよ、おまえだった
その太古の、イギリスの叫びをおれに教えてくれたのは

「ジム・バーンズ」とは、スティーヴンソン作『宝島』の主人公で、大人たちに混じって宝探しの航海に同行する少年だ(*3)。
ジムは、いい子でも悪い子でもない。海賊に脅迫されて言いなりになったこともある。独断で危険を冒すが、そのおかげで仲間を救う。大胆な行動に出る原動力は何よりも、未知なるものを見ようと奮い立つ心や、まだ見ぬものを手に入れたり創り出したりすることへの夢であるように見える。大人のような欲や大義を持たずに、ジムは命がけの旅に出る。

(おまえはいつだって自分をスクーナー船にみたてて呼んでいた、
その鍛えられた色黒い大きな両手でメガホンをつくり、
口の両側に手を置きながら、こう言っていた
アオ-オ-オ-オ-オ-オ-オ-オ-オ-オ-オ――イイイイ…
スクーナー アオ-オ-オ-オ-オ-オ-オ-オ-オ-オ-オ――イイイイ…)

舞台の奥で裸電球が灯り、辺りが水色に染められる。

少年はスクーナー船で宝島へと向かった。父親を肺病で亡くし、ついで海賊のトラブルに巻き込まれた流れで宝の地図を手に入れ、淡々とした日常から一気にドラマチックな世界へと放り出された。
ただ、『宝島』のなかに、ジムがこのように呼びかける場面を見つけることはできない。これは、カンポスとジムの間にある独自の結びつきが生み出すエピソードなのだろう。

そのプロセスを、想像力や妄想の産物だと安易に決めつけることはできない。そもそも、カンポスそのものが「異名」という一筋縄ではいかない存在であったはずだ。

おれはおまえの叫びを今ここで耳にし、そしてなにごとかに覚醒する
風が揺れる 朝が明ける 熱くなりはじめる
おれは感じる 自分の頬が火照るのを
おれの覚醒した両目が見開かれる


ペソアのもとに最初の異名者が現れたのは父親を結核で亡くした翌年、6歳の時とされている(*4)。これが正直に語られたエピソードだとすれば、「異名」という枠組みが文学的な主張のために生み出されたものではないことが、少なくとも確認できる。
ただし、後世に名を残す詩人としての異名たちが現れるのはずっとあと、25歳の時だ。

1914年3月8日を、ペソアは「私の生涯の勝利の日」と呼んでいる。その日「次々と詩を三十篇ほど、なんとも定義し難い一種の忘我のうちに書き上げる」現象が起きた。「私の内における誰かの出現」に応じてペソアはその人物を「アルベルト・カエイロ」と名付ける。この詩人はペソアの師となった。その後、カエイロから弟子「リカルド・レイスを引き剥がし」、「見えてい」るその姿に合わせて名前を付けた。「それから突然」、もう一人の弟子「アルヴァーロ・デ・カンポス」が「猛然と現れ」た。(*5)

ああ、どうやってでもいい、どこでもいい、おれは出発したい!
あの外へ、波へ、危難へ、海へ出立し、
「遠く」へ、「外」へ、「抽象の隔たり」へ旅立ちたい

男の語りは徐々に熱を帯び、全身から興奮が伝わってくる。

よう-よう-よう-よう-よう-よう-よう! 船乗りたち!
おまえたちはパタゴニアを見た者!
おまえたちはオーストラリアへ行った者!

舞台の左手、テーブルの上には水をたたえた立方体の水槽が置かれている。その隣に置かれた裸電球が点くと、赤い光がじんわりと水を染め、壁へ広がる。

おまえたちは記念碑を建てた者!おまえたちは岬に名を与えし者!
おまえたちははじめて黒人と交渉した者!
おまえたちは最初に新大陸からの奴隷を売り渡した者!
おまえたちはうろたえる黒人女性に最初のヨーロッパの陶酔を与えし者!

大航海時代、現実にアフリカ大陸で暴虐を為した船乗りたちへ、「おれ」は呼びかけている。

おまえたちは殺害し、強奪し、拷問にかけ、
あたらしい海の神秘さにまっしぐらに突き進んだ者という
「新奇な」ほうびを手に入れた者!よう!よう!よう!よう!よう!

ここを文字で読んでいる時、反射的にやり過ごしたくなった。直感的には嫌悪感を催す。20世紀初頭のヨーロッパ人、何を調子に乗ってるんだ、と。

だが、波止場からの別離の記憶、富や名誉を求める前に持っていた冒険への原動力……そうしたものから一連の流れで、一つの肉体によってこの言葉が体現された時はじめて、別の問いかけを受け取ったように感じた。

おれはおまえたちと行きたい、おまえたちと行ってみたい、
おまえたちすべてと同時に
おまえたちが行った場所のすべてへ!

太古の別離に涙しジム・バーンズを愛す一方で、奴隷商人は憎むべきだと考えていた。が、人に危害を加えたか否かという「結果」ではなく、大元の衝動に注目するとき、これらは全く関係ない別のものというわけではない。そう気付かされる。

テーブルの上で水が赤く光っている。いいことも悪いことも、生も死も通り過ぎてきた海。

おれはおまえたちと文明から逃れたい!
おれはおまえたちと道徳概念をなくしたい!
おれは遠くで自分の人間性が変わるのを感じたい!
おれは「南」の海でおまえたちとともに飲みほしたい
あたらしい野生を、あたらしい魂の暴動を、
おれの火山のごときこころの真ん中で燃えるあたらしい炎を!

全てはこの野望を叶えるための儀式なのかもしれない。もちろん、このように「純粋」な観念を求めること自体、それが反知性的な運動であろうとも、きわめて文明的な営みである。

いや、カンポスは……懐古主義であるどころか機械文明に希望を見出す未来派への傾きを持っていた。最初の詩『勝利のオード』ではこんな風に歌っている。

ああ モーターが自己を表現するごとく おれのすべてを表現できたなら。
機械のごとく完璧であったなら。
最新型の自動車のごとく意気軒昂として生きられたなら。(*6)

この詩でカンポスは機械を始めとする近代文明社会の要素全てになりたがっている。しかし当時の最先端カルチャーに素朴に浮かれていただけではない。

ペソアやカンポスらの師カエイロは、多神論者だった(カンポスによれば「多神論者ではなく多神論だった」)。ペソアの表現を借りて要約すると、ギリシャの神々が今日戻ってこれないのは、2,000年に及ぶキリスト教の伝統と西洋の形而上学に支えられた現代人の主観(“個人”による“客観”)が邪魔をするせいだという。主観的な解釈や個人的な判断を逃れ、自然を直に見つめる知性を、形而上学は今のところ生み出していないのだと。この指摘は形而上学で防備を固めてきたキリスト教にも当然かかっているだろう。(*7)

わたしは神を信じない 見たことがないのだから
もし信じることを神が望むなら
かならず神は会いに来て
玄関からなかへ這入り
わたしに言うだろう「ほら ここにいるよ」と
(……)
しかし神が花であり 木であり
山であり 太陽であり 月の光であるなら
そうであるなら わたしは神を信じる
そうであるなら わたしは常に信じる
わたしの毎日は祈りとミサと
そして眼と耳による聖体拝領の日びとなる
しかし神が木であり 花であり
山であり 月の光であり 太陽であるなら
それをわたしが神と呼ぶことにどんな意味があるのか
わたしは花 木 山 太陽 月の光と呼ぶ
もし神がわたしに見えるようにと
太陽に 月の光に 花に 木に 山になったのであれば
わたしの前に 木として 山として 月の光として
太陽として 花として現われるのであれば
それは神を木として 山として 花として
月の光として 太陽として知ることを神が望んでいるからだ(*8)

単なる自然礼讃ではない。カエイロはこのような詩作を通じて形而上学を否認し、全く異なる世界の見方を提示したという。それは一言で表せば、世界の「複数性」である。世界とは、ひとまとまりの全体として存在せず、“個人”の“客観性”によって理解され得ないもので、複数のパーツなのだという。

ある考察は、この「複数性」の自然観こそが、現代において神々を知覚するための土台なのだと指摘している。カエイロの弟子たちはこの考えを引継ぎながら、それぞれ異なるアプローチで詩作や考察に励んだ。
カンポスがテクノロジーを讃えるのは、一つにはキリスト教勢力を劇的に削ぐものと信頼したためだった。

「複数性」が適応されるのは人間を取り巻く外界や神に対してだけではない。カンポスは、心理学、社会学の知見に着目して、人格の「複数性」について論じている。私たちの人格形成とは大部分において、周囲の人々との相互作用、社会の風潮、遺伝などを寄せ集めた現象なのだと。つまり、こういうことだろう。
私とは断片の集合である、と。

人格の単一性に疑問を差し挟み、心身の一対一対応を揺るがす。この指摘はかなりの破壊力を持っている。選挙で一人一票を投じることの定義はどうなるのか、罪を犯した場合の責任主体をどこに見出すのか……などに当てはめて考えてみれば立ちどころに分かる。これは相対主義とは比べものにならない、社会の土台をすげ替える問題提起なのだ。

『海のオード』で海賊、奴隷商人といった存在やその悪行がモチーフとなるのは、偶然ではないのではないか。悪を気取るのでも道徳の是非を問うのでもない。カンポスは善悪の前提そのものがバラバラに分解された世界でそれらを見ている。

論理がなんとなくつかめたところで、誰が世界の複数性を自らのうちで調和的に知覚し、多神教の世界を生き、人格の複数性を正面から受け止められるのか?

カンポスの答えは、科学による“超人”の創造だ。超人と言ってもニーチェのそれとは全く異なっていて、「最強ではなく最も完璧」「最も丈夫ではなく最も複雑」「最も自由ではなく最も調和的」だとされる。(*7)

『勝利のオード』はこう締めくくられている。

ああ おれがあらゆる人 すべての場所でないことよ(*6)

自然発生的に「複数性」を体現してしまった先駆者をもってしても、全てになろうとする企ては無残な結果に終わっている。

科学による“超人”の創造については……必ずしもまだ答えは出ていないのではないか。パーソナルコンピュータと検索エンジンの普及は1990年代に、スマートフォンの普及は2000年代に始まったばかりである。AIの開発だけでなく、人間の知能のAI化は知らず知らず進んでいると感じる。その最終形態がディストピアを築くのかどうかは、簡単には判断できない。

『海のオード』が雑誌に掲載された翌年、ペソアは大叔母のアニカに手紙を書いている。この年の3月頃に“a medium”になり始めたこと。基本的に“a hindrance in the quasi-séances”だった自分が、自動筆記の初心者になったこと。コミュニケーションは滅多に知性だけで理解できるものではなく、こちらの質問に対して数字で答えたり、フリーメイソンやカバラ、オカルトのシンボルなどの図を描いたりする傾向があること。流暢な語りや、筋の通った言語による一連の回答など、アニカやマリアが自動筆記するものとはまるで違い、明確ではないがずっと神秘的なものだということ。そういった内容が連ねられている。(*9)

“medium”とは、「媒体」「霊媒」。ペソアが一時同居していたこともある大叔母のアニカは“medium”だったとされており、現象への理解を望める相手として報告を書き送ったのかもしれない。もう一人、「マリア」の名が出ている。ペソアの家族には大叔母、母、妹とマリアがたくさんおり、ここで言及されているのが誰なのか、今のところ私には確認できていない。

この手紙を紹介している学者は“a hindrance in the quasi-séances”の意味を理解するのは困難を極めると言っている(*9)。たしかに謎めいているが、一応単語ごとの意味を確認すると“hindrance”は「妨害、邪魔者」、“quasi-”はフランス語で「ほとんど、準」、“séances”は「会議、セッション」などの意で、「降霊術の会、交霊会」を示す例もあるらしい。つまり、自分は何らかのセッションを邪魔する存在だったのが自動筆記する人間になった、ということだろうか。

おれはおまえたちと行きたい、おれは脱ぎ捨てたい――ああ! おまえはここから外へ出ていけ!

「自動筆記」は通常の意味で「文章がすらすら書ける」こととは異なり、ヒトの手で自動的に筆記が行われる現象を指す。日本における「お筆先」を含め、さまざまな時代や場所で自然発生したりお告げを授かるシステムとして伝えられたりする一方、1920年代にはシュルレアリストたちが文学の方法論として実践を試みた歴史がある。シュルレアリストのなかには、頑張りすぎた結果、窓から飛び降りる者がいたという記録も残っている(*10)。

自動筆記のさい、意識が朦朧としているか、現象を冷静に観察しているかは、方法や実践者のコントロール力による。いずれにせよ、何らかの存在とペソアとのコミュニケーションは、筆談で返事が来る形式のものだったということだ。

ここで注目しておきたいのは、少なくとも1914年に始まった時点での異名による詩作は、この手紙で言及されている自動筆記と「多かれ少なかれ異なった体験だった」ということだ。ペソアはこの手紙でわざわざ1916年の3月頃から自動筆記が始まったと報告している。「異名」は、6歳の時から現れていた。ペソアにはレイスの「姿が見えていた」。

そうだ、そう、そうだ……おまえたちは航海のなかおれを磔にせよ
そうなれば十字架に釘打たれたおれの両肩は喜びに打ち震えるだろう!
火刑柱へ縛り付けるようにおれを航海に括りつけよ

男は奥の壁に身を押し当て、磔刑された人のように両手を水平に伸ばした。
ここから「おれ」は、傷付けられることへの欲望を連ねていく。

甲板の上で、波の音に合わせて、
おれを切り刻み、殺し、傷つけよ!

これは死の願望ではない。傷付けられ殺される目的は、それらになり、感じることだからだ。

おれの血管をシュラウドにせよ!
おれの筋肉をもやい綱にせよ!
おれの皮膚を剥ぎ取り、キールに打ち付けよ
そうすればおれは釘の痛みを感じられ、決してそれを感じるのをやめないでいられる!

男はいつしか上衣をはだけ、汗で光る胸板をさらしている。

航海者が耳にし、聞くだけで歌うことのない歌になりたい!


男は水の入った立方体に手を掛け、持ち上げると右手の台へと運びはじめる。水は赤い光から遠ざかり、無色透明になった。

反乱に立ち上がった船乗りたちは
帆桁に船長の首を吊るした
別の船長を無人の島に降ろした
孤島に置き去りにされたのだ!

水槽が運ばれる様子は、いろいろな光景に見える。神様が地上の模様替えをしているようにも、地球を手ずから公転させているようにも見える。人間が船を操縦していることの象徴にも見える。

ちゃぷちゃぷと水が揺れる水槽を船に見立てる時、船とは航海を集約する存在なのだと気付かされる。ドライブで車が、航空で飛行機が、旅行でトランクが果たす役割のように。

私たちは航海そのもの、冒険そのものを見たり触れたりすることはできない。船は、視界に映る海を規定する足場である。船とは、取り留めのない航海を実体化するシンボルであり、海にアクセスするためのインターフェイスである……そう捉えることはできないだろうか。

カンポスは造船技師だった。少なくとも、彼と海の間には、つねに船があったはずだ。

15人の男がデッドマンズチェストに腰掛ける
ヨーホ ホ ラム酒のビンだ!

男は水槽越しにこちらへ顔を見せながら、『宝島』の海賊たちの歌を威勢よく口ずさむ。

これは、現イギリス領に実在する「デッド・チェスト島」に海賊の反乱者が置き去りにされ、15人だけ生き残ったという言い伝えを元に、スティーヴンソンが創作した歌とされている。

二行目は原文で“Yo-ho-ho, and a bottle of rum!”、「よお、ほの、ほ でラム一本!」という訳もある。「ヨーホ ホ」は船で息を合わせて綱や鎖を巻き上げる時の掛け声だ。(*11)

海賊たちは明るいうちからラム酒を飲み、この歌を口ずさむのを好む。ほとんどが字の読めない、喧嘩っ早い荒くれ者たちである。

『宝島』が生み出される160年ほど前、同じイギリスで1719年に書かれた冒険小説に『ロビンソン・クルーソー』がある。一般には幼年期のための教育的読み物として扱われがちなこの物語には、対象年齢に制限を持たない「もう一つ別の教えが含まれている」とする指摘がある。

この本は人々の精神を蝕むような、有毒ともいえる影響を及ぼした。われわれは、裸の人間と自然との間の対話におけるあの「やっと、二人きりになれた」という感慨は、彼ロビンソン・クルーソーに始ったと考えることができるのである。(*12)

当時、歴史上「最も洗練された完成度に達した」ヨーロッパ社会に、型破りなヒロイズムを語り得る余地はなかった。ロビンソン・クルーソーはそんな状況を突破する発明だった。

南海の孤島に一人で立つ裸の難破者、「衣類も持たず、社会も政治も、ほとんど言葉さえ持たない」難破者は……時代に関係なく「諸々の宇宙的な力に対する真向からの戦い」に挑むと同時にそれらと「密接に一体とな」る資格を有していた。さらには、彼方から文明のヨーロッパへと郷愁を抱くことさえできた。

その後ルソーは「自然に帰れ」と訴えはじめた。「ロマンティシズムが、幸福と善に達するための手段として自発性と無教養さの価値を称揚し始めた」。(*12)

ダービーマッグロー オー-オー-オー-オー!
ダービーマッグロー オー-オー-オー オー-オー-オー!
せ-せ-船尾にラア-ア-ア-ア-ア-ア-ア-ア-アム酒をもってこい、ダービー!

文字を知らない海賊が小説や詩を読むことはない。創作することもない。
本当に海賊になったら、本当は詩なんか書けないはずだ。書いているかぎり、詩人は対象に「なれない」。なろうとするエネルギーだけが時間をつないでいる。

ああ、こりゃあなんて人生だ! これが人生だったなんて、ああ!

男が裸電球のランプを床から拾い上げると、肝試しみたいに下から照らされた顔と、壁に伸びる大きな影が現れる。

ああ 海賊たちよ 海賊たちよ 海賊たちよ!
海賊たちよ、おれを愛しそして憎め!
おれをおまえたちのなかに混ぜてくれ、海賊たちよ!

冒頭に見た人影あるいは抜け殻、服を着た骸骨が激しく動きながら訴えているかのようだ。血というよりも魂というよりも、私たちは骨になったとき最も、べつの存在に近づくことができるのかもしれない。いや、ナニ人でも男でも女でも美醜も貧富も大差のない、肉をはいだ姿を死ぬまで知らないでいるだけなのかもしれない。

赤い光が辺りを染める。男はランプを床に置き、ひざまずいて訴える。

ああ、おれは罪悪のなかのすべてでありたい!おれは船への襲撃、虐殺、暴行のすべての構成要素でありたい!
おれは破壊の起こる場にあったすべてでありたい!
おれは血に染まる悲劇の場に生き永住するすべてでありたい!

影が男と同時に動き、ともに語っている。奥の壁で水面の模様と重なって、巨大な存在が海でうめいているようにも見える。
「おれ」に意識されない、べつのところで、「おれ」は「おれ」でない巨大なものになっているのではないか。

おれはこの無抵抗な身体のなかで
海賊たちに犯され、殺され、傷つけられ、切り裂かれた女、すべての女になりたい!
おれはこころの底では海賊たちの雌として征服されたい!
そしておれは脊髄を通してこのすべて――いっぺんにこれらすべてのこと――を感覚したい!

男は白い上衣を脱ぎ捨て、汗にまみれて半裸で語り続ける。

神にならなければならなかった、倒錯した崇拝の神に、
怪物のようで悪魔のような神に、血にまみれた汎神信仰の神に、
それはおれの想像のその一つひとつ、そのすべてそしてすべて以上のものと
ひとつになるおれの願いを決して枯らさないために!

その姿はディオニュソスを彷彿とさせる。ただし、自分がディオニュソスだということを思い出せず、ならなければと苦しみ、病んでいる神のように見える。

ああ、おまえたちよ、おれを治癒するために拷問にかけよ!

床にのたうちまわり、苦しそうな様子をしている。

畜生!おれの狂ったこころのままに行動できないなんて!
畜生!文明というスカートにしがみついたままでいるなんて!

狂騒の時間がしばらく続いた後、赤い光は魔法が解けたようにぷつりと消えた。白い光のなかで男はなおも語り続け、壁に映る水面は音を立てずに揺れている。

う-み-み-いで、う-み-み-いで! う-み-み-いのなかで!

水色の光が広がり、辺りを染める。

よう-よう-よう-よう-よう-よう-よう-よう-よう-よう よう-よう-よう!

男は、海賊の歌や言葉にならない叫びをひとしきり吐き切って床に倒れ込んだ。「おれ」が書いた詩であって詩ではない、本当に海賊になったとしても語り得る歌と叫びを。

おれのなかでなにかが砕ける 赤が闇に包まれる
続けざまに感じようとして行き過ぎてしまった
おれの魂は空になり、おれにはこだまだけが残った
はずみ車が目に見えて速度を落とす

男の声がスピーカーから流れている。辺りは青く、薄暗い。男はうなだれたまま動かない。

ああ、なぜにおれはあんなことを考え、夢見ることができたのか
ほんの少し前にいたところからなんて遠くにいるのだ!
ヒステリックな感覚――こうかと思えば、逆のこともある!

男は椅子に顔をうつぶせ、眠り込んだような様子になった後、水槽の水で顔を洗う。ぱしゃぱしゃと水の音が響く。

おおおれの幼少の日々、誰かに壊されたおれの人形!
幼少の日々へ、あの家やあの愛情へ旅することは叶わないのか
そこにいつまでも、子どもとしていつまでも、喜びのままいつまでもいることはできないのか!

男はゆっくりと上衣の袖に腕を通し、椅子に腰掛ける。スピーカーから流れる語りは淡々としている。

おれは神、生の超越者を思い出す、すると突然
おれが先刻話したイギリスの船乗りジム・バーンズの古の声が、
おれのなかで母親の膝と妹の髪のリボンといったたわいもないことについての不可思議な慈愛の情の声となり、
事物の表層を超えて奇跡的に到来する、

日常的な動作を行う男と外側で流れる語りとの関係を見ていて……ひょっとすると、これは狂騒の後に訪れた冷めた時間なのではなくて、ずっとここにあったものなのではないかと、ふと思った。この詩の最初からずっと並行して、ここにあったものなんじゃないかと。

はっきりとは聞こえない遠いその「声」は「絶対的なるものの声」、「口から発せられるのでない声」となり、
海の夜の孤独の上と内から到来する、

ペンで紙に書き付けなければ詩はできない。具体的にこの世にある手で、体で。それはもちろんカンポスというより、現実の社会に名義を置くペソアの体なのだが。

その声はおれを呼ぶ、おれを呼ぶ、おれを呼ぶ……
聞こえるか聞こえないかのように、そっと、
ここでは聞こえずどこか他の場所で音がしているかのように、はるか彼方から、
こらえた嗚咽のように、消えゆく明かりのように、静かな吐息のように、
空間のどこでなく、時間のどこでもない場所からやってくる

ペソアは生前発表した作品のほか、トランクに夥しい数の原稿や断片を残したという。現在も整理しきれていないらしい。そう聞くと「沢山あるんだな」と思ってしまうが、果たしてそうだろうか? 書き残されなかった詩はそんなものと比較にならないほど沢山あったのではないかと私は思う。

働いたり食事したり眠ったりする間も、詩はバックグラウンドで生産されていたはず。原理的にいって、書くのが追いつかないはずだからだ。

男は椅子からどさりと床に落ち、再び語りはじめる。水色は消え、白い光が男を照らす。

魂の冷たさにおれの身体は震える
そして突如おれは閉じていなかった目を開ける
ああ、なんて嬉しいんだ 今度こそ夢から抜け出られる!
もう一度神経の休まるここ現実の世界に俺はいる!
今は明けの時刻、早々に着いた数隻の貨客船が入ってくる
入港してきたあの貨客船はもうどうでもいい まだ遠くにいる
いまそばにいるものだけがおれの魂を洗う
おれの健全で、頑丈で、実際的な想像力は、
いま現代的かつ有用な事物に、
貨物船、貨客船、そして乗船者に、
目の前の、現代的で、商業的で、真なる、頑丈な事物にもっぱら没頭する

男はよろよろと立ち上がる。「ボーッ」と霧笛が鳴る。私たちは、波止場へ戻ってきたのだ。

すばらしき現代の海の生活、
すべてが清潔で、機械的で、健康的だ!
あんなにも遠く離れようとした文明を「おれ」は今、礼讃する。
ポエジーはなにも失っていない そしていまはポエジーを備えた機械も
多すぎるくらいあり、そして機械の時代が魂にもたらしてきた
まったくあたらしい種類の生活、
商業的な、世俗的な、理知的で、情緒的な生活がある
ポエジーさえもそこに見出す。
まあいいさ
船はみずからの為すべきことを為す 同じくおれたちはおれたちの為すべきことを為そう 美しき人生!
ボン・ボワイヤージュ! ボン・ボワイヤージュ!

男は裸電球のランプを両手に持ち、大きくクロスさせるように動かしている。

ボン・ボワイヤージュ! ボン・ボワイヤージュ! 人生とはこういうことだ……

電球を持った手が下ろされて、前向きな言葉と裏腹に男の顔は暗くなる。半ば影のように、亡霊のように、抜け殻か骸骨のように。これもまた、冒頭からずっと、ここに並行して存在した姿なのかもしれない。

なんとも自然な、朝の変わることない高潔さが
今日、リスボン港を出港したおまえにはある!
おれはおまえに不思議な感謝に満ちた愛おしさを感じる だから……
だからなんだ? なにかなんてわかるか!…… 行け…… 進め……

男は明かりを床に置く。「ボーッ」と霧笛が鳴った。

進め、ゆっくりとした汽船、進め止まるな
おれから離れろ、おれの視界から消えろ、
おれのこころの内側から消え去れ、
「遠く」に消え去れ、「遠く」に、神の霧に、
消え去れ、おまえの行き先を進み おれを放っておいてくれ……

語りは誰のものか分からない、深く響く声で続けられる。

なにゆえにおれは涙を流し問うているのか
なにゆえにおれはおまえに話しおまえを愛するのか
なにゆえにおまえを見るとおれのこころは乱れるのか?

「おれ」とは誰なのか。カンポスは、ペソアではない誰かであった。「おれ」だって、カンポスではない誰かなのかもしれない。

消え去れ、おれを放っておいてくれ、帰れ

帰れ? 「遠く」に、神の霧に?

10

ペソアの異名の一人、哲学者のアントニオ・モーラには『神々の帰還』という著書がある。アントニオ・タブッキはペソアが亡くなる直前の三日間を題材にした小説で、モーラの教説をペソアの口から語らせている。

まず初めに、神々が戻ってくるだろうということ、なぜなら唯一の魂、唯一の神というこの物語は歴史の周期の中で終わりかけている仮りそめのものだから(……)そして神々が戻ってくるとき、われわれは魂のこの唯一性を失い、われわれの魂は自然の望むままに再び複数になるだろうと。(*13)

多神教の復興とともに、魂は唯一性を失って再び複数になる。モーラはそう説いたらしい。唯一の神と一つの魂、これは仮りそめの物語なのだと。先に見たカンポスの理論と共通した考えである。ここでは、さらに理解を助けてくれる(かもしれない)以下の知見を見ておきたい。

およそ3,000年前まで、ヒトは誰もが、神々の声を聞いていた。そういう驚くべき学説がある。オカルトではない。「意識」ができる以前、人間の行動は右脳で生成された「声」を左脳で「聞く」ことによって方向付けられていたというのだ。声は共同体に蓄積された規範や経験、たとえるならばその地で共有されたデータベースから適切な行動を導き出すことで作られた。右脳からの声、すなわち幻聴は、左脳で亡くなった王や神々などからの命令として認知されていた。このシステムは提言者によって「二分心」と名付けられている。(*14)

この説に従えば、神々とは、私の脳にありながら私でない人格(神格?)だ。ペソアの異名に似ていないだろうか。本人から自律して思考し、時に導き手となる詩人、思想家、あるいは友人たち。

単刀直入に私の考えを言おう。最初の詩人は神々だった。詩は〈二分心〉の誕生とともに始まった。古代の精神構造における神の側はたいてい、いやことによるとつねに、韻文で語っていたのだ。少なくともそういう時代があった。つまり、ある時代に生きた人間のほとんどは、頭の中で詩(のようなもの)が組み立てられて語られるのを一日中聞いていたことになる。(*14)

もしペソアの異名が何らかの形で「二分心」に近しい脳の機能によって生じたものだとするならば、書き残されたよりももっと膨大なテキストがこの世界に生成して消えていったのではないかと、そう思うのだ。そして時に、たとえば電波の悪いところで誰かと電話しているときのように、「何かに隔てられた」かのように詩を書き残せなかった、あるいは書けたが感覚できなかったことも少なからずあったのではないかと、そう思えてならない。
(詩は声として聞かれたとは限らない。幻覚は五感で現れ得るほか、自動筆記、言語以前の情報など、形はさまざまに想像し得る。)

船ははじめ川の真ん中で目立ってはっきりと見え、
それから港口へ向かい小さく黒くなり
そのあと水平線上の霞んで見える点となり(おお我が苦悩!)
水平線上にその点はしだいに霞んでいった……

ところで異名たちとの交流のなかで、ペソアはどんな影響を被ったか。6歳からと言えば物心ついた頃だから、逆に言うと異名の存在しない世界はペソアにとってみれば存在しないのかもしれないが。

人格たちへの投資がすすめばすすむだけ、私の空無化もすすむ。私はからっぽの存在となり、ただ墓の彼方からのまなざしだけをたずさえて、かたちのみがそこに残されたミイラとして、死後の生存をつづける。(*15)

たとえばそんな解釈が存在する。

少なくとも、プライベートへの干渉はあったようだ。カンポスがペソアの恋人に手紙を書いて、別れさせたという記録が残っている。

あとはなにもない、あるのはおれとおれの悲しみだけ、
いま大きな街は太陽の光で満ち
もう船のいない波止場のような現実の剥き出しの時刻となる、
くるくる回るコンパスのように、クレーンがゆっくりと旋回し、
おれの魂の動揺した静寂のなか
おれにはどんなものかわからない情動の半円を描く

抜け殻のような男を照らしていた明かりがぷつりと消えて、水が揺れて砕けるような、ジャバジャバした波の音だけが残され、やがて遠ざかって聞こえなくなった。




*1: 本公演の原作は、アルヴァロ・デ・カンポス(フェルナンド・ペソア)(渡辺一史訳)「海のオード」、『現代詩手帖』2015年7月号、思潮社。以下、台詞の引用は原則的に上演台本から行う。
*2: 澤田直「解説」、澤田直編『海外詩文庫16 ペソア詩集』思潮社、2008年。
*3: 以下を参照した。ロバート・L・スティーヴンソン(鈴木恵)『宝島』新潮社、2016年。
*4: 澤田直編「フェルナンド・ペソア詳細年譜」、『現代詩手帖』1996年6月号、思潮社。
*5: 澤田直編訳「異名者への手紙――フェルナンド・ペソア散文抄」、前掲書。
*6: アルヴァロ・デ・カンポス「勝利のオード」、池上岑夫編訳『ポルトガルの海――フェルナンド・ペソア詩選』彩流社、1985年。
*7: Steffen Dix, The plurality of Gods and man, or “The aesthetic attitude in all its Pagan splendor” in Fernando Pessoa, THE PLURALIST, 5-I, the Board of Trustees of the University of Illinois, 2010.
*8: アルベルト・カエイロ「なにも考えぬことには」、池上岑夫編訳『ポルトガルの海――フェルナンド・ペソア詩選』彩流社、1985年。
*9: Alisson Diêgo Dias de Medeiros, Occultism and mediumship in Fernando Pessoa, Retrieved July 2019, from http://www2.ifrn.edu.br/ojs/index.php/HOLOS/article/view/2507/0
*10: 巖谷國士『シュルレアリスムとはなにか』筑摩書房、2002年。
*11: 鈴木恵「訳者あとがき」、ロバート・L・スティーヴンソン(鈴木恵)『宝島』新潮社、2016年。
*12: エウヘーニオ・ドールス(神吉敬三)『バロック論』美術出版社、1970年。
*13: アントニオ・タブッキ(和田忠彦)『フェルナンド・ペソア最後の三日間』青土社、1997年。
*14: ジュリアン・ジェインズ(柴田裕之)『神々の沈黙――意識の誕生と文明の興亡』紀伊國屋書店、2005年。
*15: 管啓次郎「否定の騎士――あるいは〈私〉の終わりについて」、『現代詩手帖』1996年6月号、思潮社。

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