若きウェルテルの悩み

坂東 芙三次による連続観劇レポート


ゲーテ「若きウェルテルの悩み」
2019年
12月21日(土) 13:00 開演
12月22日(日) 13:00 開演
会場:綜合藝術茶房 喫茶茶会記

 

男が一人、よろよろと現れてそこらをのたうち回る。首元には赤地に黒い水玉模様のストール、同じ柄の布が黒いシャツとパンツに巻き付くようにパッチワークされている。ポップな色柄が毒蛇を連想させる。

君は救われないのだ、不幸な男よ。ぼくにはよくわかっている、ぼくらはみな救われないのだ。(*1)

深く響く声が私たちを突き刺す。

ざっくり言って、これはよくある失恋の物語だ。青年が結婚相手を持つ女と出会い、恋に殉じて自殺する。『若きウェルテルの悩み』が発表された1774年当時、世の中には衝撃が走ったらしい。18世紀、小説は読者に娯楽と教訓を与えるものだとされていた。人間の生き方そのものを問うこの作品は画期的なものだった。「愛が人間の自由意志によって死に結びつくなどということは、考えられないことだった」(*2)。

男は首元のストールをほどき、奥の壁に吊るす。振り返ると、恋に気もそぞろな、朗らかな青年になっていた。

実にすばらしいひとと知り合いになったてんまつを順序よく話そうというのは、どうにもぼくには荷がかちすぎるらしい。ぼくは満足だ、幸福だ、だからさ、語り手としちゃしごく不手際なんだ。

洋画によく出てくる、恋でバカになっちゃってる金髪の青年みたいだ。こうした恋心は、日本人も同じようにしばしば抱くものだろう。ここで金髪の青年を連想せずにいられないのは、切ない胸の炎、とめどなく湧く無形のエネルギーをあくまで明晰に言葉にしようとし続ける態度と、でも結局は言外の様子が最も雄弁に浮かれた心を伝えてくる、そうした姿が体現されているからだろう。

ぼくは誓ったんだ、ぼくが愛し求めているひとにはぼく以外の誰ともワルツは踊らせない、たといそのためにぼくの身が破滅しようとも。

ウェルテルと想い人のロッテは舞踏会で踊る。その様子を見たロッテの知人が「アルベルト」という名を口にしてたしなめにくる。

「アルベルトって、どなたなんです、ぶしつけだけれど」――ロッテの額にかすかな翳りがさしていたように思う。「お隠ししたって仕方がございませんわね、わたくしのいいなずけみたいな、まじめな方ですの」――べつに耳新しいことじゃない。(ここへくる途中、連れの女たちに聞かされていたから)とはいうものの、これほどの短時間に、これほどいとしく思い始めたロッテというひとにそれを関係づけて考えてはいなかったものだから、やっぱりはっとした。

ロッテは聡明な女性で、社交の場で機転をきかせるのが得意だ。ウェルテルが動揺してよその組のダンスを乱しかけると、落ち着いてリードして元通りにしてくれる。外の雷鳴で座興が冷めると、ゲームを提案してみんなを盛り上げる。

完璧で、夢みたいな描写だ。

ゲーテは恋多き人だった。『若きウェルテルの悩み』を書くキッカケになったのは1772年、22歳の終わりに出会ったシャルロッテ・ブフへの恋。許婚者のいる人だった。死を思いつめる時期を過ごすが、同じ年に友人が自殺。ゲーテは強烈なショックを受けて「夢から揺りおこされ」、「自分の恋愛体験と友人の自殺事件とを結びあわせて一つの小説を書こうと思い立った」(*2)。執筆を通じて、死に迫るほどの心の危機を乗り切った。

男は音楽に乗って、一人夢みたいに踊る。もちろんウェルテルはこの時、すっかり恋に酔って踊らされている。

結末を知っていると物悲しい場面である以上に、ゲーテの過去に対する態度を想像させられる。ゲーテにとって、これは過去を、その時々の感覚を味わい尽くして弔う作業だったのではないかと。



アルベルトが到着した。ぼくはここを立ち去ろう。アルベルトが世の中で一番いい、一番立派な人間であって、どの点においてもぼくが進んでアルベルトの下に立たざるをえないような人間だったとしても、彼がぼくの眼の前で、ロッテのようなひとを所有しているのをとても我慢して見てはいられまいからね。

手放しにはしゃいでいた青年は、全てを失う絶望と対面する。そのどうしようもなさをやっぱり、どうにか明晰に言葉にして耐えようともがくなかで、今ここに生きる個人の苦悩を超える観念に手が伸びる。

ぼくはよく自分にこういう、「お前の運命は類がないものだ、ほかの人たちは幸福といっていい――お前ほどの苦しみを味わった者はいないのだ」。そんなとき、ぼくは古い詩人を読む。まるで自分の心の中をのぞくような気がする。ぼくはいろいろなことに堪えなければならん。ああ、ぼく以前でも人間はこんなに哀れなものだったんだろうか。

男の首元にはいつの間にか赤地に黒い水玉模様の、あの毒蛇みたいなストールが巻き付いている。

ぼくが昨日あなたの唇に味わったあの燃えるいのちは、今もしみじみと感じているあのいのちは、どんな永遠がやってきたって消すことなんかできないのだ。

男は苦しみがきわまった時、再びそこらじゅう踊りまくった。恋してただ幸せだった時、ロッテと二人きりの結びつきを感じていた時、ウェルテルはそこらによくいる青年に過ぎなかった。自分の悲劇を引き受けてはじめて、遠い時間に思いが至った。今の踊りは、祈りのようにも見える。

夢を見ているんじゃありません。幻でもない、墓に近よってぼくは心が冴えてきた。死ぬんじゃない、また会えるんです。あなたのお母さまに会えるんです。ぼくは会います。見つけ出すでしょう、そうしてお母さまにぼくの心のありったけをぶちまけます。あなたのお母さま、あなたの似姿。

ゲーテは自殺した友人に心を寄せただろう、自身、本当に死のうとしただろう。しかし、『若きウェルテルの悩み』への評価によってゲーテは作家としての地歩を固めたし、死なずに生き続けた。それは、苦しみのなかで今こことは別の時間への眺望に目を向けたからではないか。

ウェルテルは一応、結末で亡くなる。死まで作品の中で通過してこそ、ゲーテが過去と向き合う作業は完結したのだろう。だが実際のところ死なないで済むための希望、可能性は手前の部分で示唆されている。

ピストル型にした手をこめかみに当てると銃声が流れ、男は倒れた。小説の結末で描かれるウェルテルの死は死だが、舞台での死は演じられた死だ。再び明るくなると倒れていた俳優は起き上がり、観客に快活に挨拶した。

発表された当時、この小説に影響されて自殺する若者がたくさん出たという。一人ぼっちで読まなければ、何人かは死なずに生き続けたかもしれないと思う。



*1:ゲーテ(高橋義孝)『若きウェルテルの悩み』(1951年1月、新潮社) 以下、小説の引用は全て本資料より
*2:同、解説より

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