「地獄の季節」

坂東 芙三次による連続観劇レポート


アルチュール・ランボー
「地獄の季節」

2019年
11月17日(日)
会場:綜合藝術茶房 喫茶茶会記

 

舞台の奥には閉店したレストランやバーか楽屋の片隅のように、座面を合わせて組んだ椅子がびっしり一列に並んでいる。

裸にベスト、短いズボン、光に透ける赤いストールをまとった男が現れて、踊る。

以前のことをよく思い起こすと、僕の人生はパーティだったな、――心という心が開かれ、酒という酒が流れるパーティだったな。(*1)

語りはじめたのはランボーが1873年、19歳で書いた『地獄の季節』。愛人関係にあったといわれる詩人ヴェルレーヌとのあいだで激しい喧嘩を繰り返し、ピストルで撃たれて手首に弾が当たった事件の翌月に完成したとされる詩だ。

フランスの歴史のどこかに僕の祖先が見つかったらなあ!
いや、いない、たった一人も。
僕がいつも劣等民族だったことは明らかだ。

男は踊り、うごめきながら語る。詩の内容を聞いていると、かつての権威を失いつつあるキリスト教文化から遠く離れようとする、近代ヨーロッパのインテリ青年らしい志向が見て取れる。

が、ここにはもっと素朴に共感を寄せる余地もあるような気がする。大切な人との死別や離別、あるいはその予感のもとで愛憎の渦に身を置くとき、心の中で地獄のフタが開くことはないだろうか。そういう状態に入ったとき、自分を取り巻く細々とした現実が、茶番に見える。いわゆる「本当のこと」を探し求めたくなる。




前世紀に僕は何だったんだろう。僕には今日の自分しか見つからないよ。

男はふと止まって、ゆっくりとこんな言葉を残す。このとき「俺」が「俺」と呼ぶのは個人を超えた何者かである。

なぜキリストは助けてくれないのか、僕の魂に高貴と自由を与えて。ああ! 《福音》は去っちまった! 《福音》よ! 《福音》よ。

切ないのは、ここにはない「本当のこと」を壮大なスケールで探し求める「俺」の存在は、しかし間違いなく、育ってきた文化に支えられているということだ。そのことを、次のような視覚的要素から想像させられた。

男は詩を語りながら、奥の椅子を一脚ずつ取っては前へ運んできて、不規則に置いていく。逆さに積まれた椅子が一通り無くなったとき、舞台の奥に残されたのは『最期の晩餐』のように横一列に並んだ空席だった。

「キリストは俺を助けてくれない」が、不在としてそこにある。自分は何者なのかを考えるときキリストが引き合いに出されること自体、「俺」の思考がキリスト教的な基盤抜きには存在し得ないことを感じさせる。

並んだ空席から『最期の晩餐』を思い浮かべたのは私の勝手な連想だ。が、つまりは何でもよい。思い切り抽象的に、“絶対的な判断を下してくれる他者”の不在がそこにあると言ってもよい。あるいは、不在ではなく見えないだけなのかもしれない。でないと、この探求が最初から徒労と決まってしまう。それではあまりに希望がない。

どこへ行く? 戦いか? 僕は弱い! 他の連中は前進する。道具だ、武器だ、……時間だ! ……撃て! 僕を撃て! ここだぞ! それとも僕が降参するか。卑怯者め! ――僕は自殺するぞ! ――馬の足元に身を投げるぞ!

男は不規則に置いた椅子のあいだを動き回りながら語り続けている。

時々、舞台左手の奥から白い煙が吹き出す。男がゴジラみたいに見えた瞬間に、空間のスケールが大きく変わった。椅子だと思っていたのは、たとえばパリの街並みを形成する建物であり、それはおそらくフランスの歴史や伝統の象徴であり、過去の人々が残した言葉、文学の積層さえ意味するのかもしれない。詩を語る男の姿を見ていると、それらへの愛憎が上空で渦巻いているように感じる。

僕は架空のオペラになった。僕は見たよ、――あらゆる存在が幸福の宿命を担うってことを。行動は生なんかではないんだ。いくらかの力を無駄にする手段、神経の苛立ちなんだ。道徳なんてものは脳の弱さだよ。

後ろに並んでいた椅子が男の手で全て前へ運び込まれ、倒れて足が上に向いた状態で置かれる。とげとげした空間が生まれた。

僕も一度は生きたんじゃないか、愛すべき、英雄的な、伝説の、黄金の紙に書いてしかるべき青春をさ、――ありあまる幸運に恵まれた青春をだよ!

地獄を思わせる空間で、男は苦しげに詩を語る。『最期の晩餐』の座席のようにも見えていた椅子の列、つまり秩序の象徴のようなものを、ついさっき自分の手で解体し、逆さにしてバラバラに床に置いた、その空間で苦しがっている。

このことを、単にお芝居の手順としてだけ受け止めることはできなかった。実際のところ、歴史上繰り返し起きているのも同じようなことなんじゃないかと思ったからだ。

古い価値観の解体を自分の手でやっておいて、人は苦しむ。古い価値観にも、寄る辺が無くなった状況にも責任を問うことはできなくて、自分の手で解体を行ったために人は苦労する。そんなことを考えさせられた。




いつ僕たちは行くんだろう、浜辺と山を越えて、新しい仕事の誕生、新しい叡智、暴君ども、悪魔どもの退散、迷信の終わりを、慶び迎えるためにさ、地の上にクリスマスを――最初の人として! ――褒め称えようと!

散らばっていた椅子を舞台左手の奥に乱雑に積み上げると、そこは砦のようになった。男はそこに立って、訴えるように詩を語る。紅テントの芝居に出てくる主人公を思わせるような、言葉の力で船出しようとしているようなエネルギーを感じさせる。

疲れ果てて床に仰向けになったあと、砦の下に這いずりこんだ男は、光る裸電球を持って戻ってきた。

大きな金の船が、僕の頭上で、朝の微風に多彩な旗をはためかすよ。僕はあらゆる祝祭、あらゆる勝利、あらゆるドラマを創造したんだ。新しい花、新しい星、新しい肉体、新しい言葉を発明しようと試みたんだ。

汗をだらだらと流しながら、男は語り続ける。

超自然的な力を獲得したと信じたんだよ。それが、どうしたってんだ! 僕は自分の想像力と思い出を葬らなきゃならないんだ! 芸術家と語り手の輝かしい栄光が奪われちまったんだ!

男は突然、舞台左手の扉を開けて向こうの部屋へ入り、奥にある窓を開けて戻ってきた。

断じて現代的でなくっちゃいけない。
讃美歌なんかありはしないよ。手に入れた地歩を保つことだよ。つらい夜だ!

外からの冷たい空気が足元を流れていく。

とはいえまだ夜は明けないな。流れ入る生気と現実のやさしさのすべて受け入れようよ。そして暁になったら、燃える忍耐で武装して、光輝く街々に入って行こうよ。




ランボーはこの作品のあと、『イリュミナシオン』をもって詩人としては断筆したのだという。ただ、詩から書簡に場を移しただけで、形を変えて詩的なるものを書き続けたのだという説もある。

踊るようにうごめきながら語り続ける男の姿を眺めていて、詩人にも体があり、息をして書いていたのだなということに思いを馳せた。文字で残っている詩は氷山の一角で、詩人には詩人としてただ生きている膨大な時間があったのだと思った。男は語り終えると、舞台右手の扉を開けて外へ駆け出していった。


*1:アルチュール・ランボー(鈴村和成)『ランボー全集 個人新訳』(2011年9月、みすず書房)。以下、詩の引用は全て本書より行う。

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