「神の裁きと訣別するため」

坂東 芙三次による連続観劇レポート

アントナン・アルトー
「神の裁きと訣別するため」
2019年8月18日(日)
会場:綜合藝術茶房 喫茶茶会記

男が一人、こちらに背を向けて立っている。赤い布を両腕、背中、片脚に沿って着けている。筋肉みたい。だから、皮膚が剥けて裸よりも裸でいる人のように見える。
急に振り返ってこっちを見つめる。客席のあちこちに手を差し伸べては頷き、何かを目で訴える。
男は突然、体をぎゅっと縮めたかと思うと、上下左右非対称な身体動作や、舞踏を連想させる叫ぶような静止を見せる。

一本の毛にいたるまで
すべてが
炸裂する秩序のうちに
整えられなくてはならぬ
(*1)

動作を続けながら、地の底から聞こえてくるような声で言葉を語りはじめる。

私は昨日そのことを知った

原作にあるこの1行を、男は興奮のていで何度も何度も繰り返した。わずかな文字に込められた莫大なエネルギーを代弁するかのように。

私――アントナン・アルトーは19世紀の終わり、1896年に生まれた。5歳の時に脳脊髄膜炎を患って一命をとりとめ、以後生涯、後遺症とともに生きた。20代終わりに初期シュルレアリスムのグループに参加。演劇活動では「残酷劇」を提唱して現代演劇に大きな影響を与えた。

『神の裁きと訣別するために』はアルトーが亡くなる前年、1947年の冬に書かれた作品で、内容の過激さから1973年まで放送されなかったという。
アメリカは戦争に備えて兵士までも人工授精で大量生産しようとしていると告発めいたことを言い、麻薬効果のある草を食べて儀式を行うタラフマラ族の生き方を慕い、糞便性を探求して神を拒絶する。




たしかに物騒なモチーフが並んでいるが、実生活で受けていた仕打ちの方がよほど過激に思える。1937年から1946年まで、アルトーはフランスの精神病院に監禁されていた。

監禁中の想像を絶するさまざまな困難、五十一回にも及ぶ電気ショック、臨死体験、戦争、占領中の劣悪な精神医療体制下での極度の栄養失調、長年にわたる麻薬中毒による禁断症状との戦い、当時すでに進行中であったはずの直腸癌により下腹部の激痛(*2)

苦痛には、イヤでも自分の体を見つめさせ、世界との上辺の付き合いを強制終了させようとする力がある。その中でただ一つ残る、自分にとっての圧倒的な真実とは何なのか、それが問題だ。

最初のパート、「トゥトゥグリ――黒い太陽の儀式」を経て、男の語りは「糞便性の探求」に進んでいる。体をうごめかせ、エネルギッシュに言葉を投げかけてくる。

二つの道が彼に与えられていた、
無限の外部への道と、
細々とした内部への道である。
そして彼は細々とした内部を選んだ。
そこでは鼠や、
舌や
肛門や、
亀頭を
しめつけるだけでいいのだ。

そして神が、神みずからが運動をおさえつけたのだ。

重要な主張がここに現れているように思った。人間が精神を肉体に優越させたことが問題であり、肉体を抑圧した神を私は拒絶すると。

男が舞台の脇からスタンドマイクを持ってきた。語りは次のパート「問いが提出される……」に入る。




重大なことは
この世界の
秩序の背後に
もう一つの秩序があるということを
われわれが知っていることだ。
それはどんなものか。
それはわからない

「もう一つの秩序がある」とは、ブルトンが『シュールレアリスム宣言』の最後に記した「生はべつのところにある」との共通点を感じさせる記述だ。
男はマイクのスタンドを握って勢いよく言葉を語る。が、「それはどんなものか」というと、「わからない」。

この領域において可能な仮定の数および秩序は
まさに
無限なのである!
では無限とは何か
われわれはそれをよく知らない!

男は引き続きマイクを使ってぐいぐい語ろうとするのだが、「無限とは何か」の答えは持っておらず、ふらふらスタンドから離れて立ち歩きながら言葉を続ける。

意識とは一体何だろうか。
われわれはそれをよく知らない。
それは無である。

もう一度マイクの前に立って何かを明言しようとするが、ついに脱力して床に倒れ込む。

われわれに何か理解できないことがあるとき
どの側面において
これを理解できないか
示すために
一つの無を
われわれは使用する

語りながらよろよろと立ち上がり、再びマイクに接近する。

そのとき
われわれは
意識といい、
意識の側面というのである、
しかし他にも、無数の側面が存在するのである。




男とマイクスタンドとの関係は、アルトーが客観的記述の限界に挑戦する姿に重なって見える。アルトーは自分の主張を電波に乗せて広く一般に訴えかけようとしている。が、その内容は、いわく言葉にしがたいことの塊だ。人は言葉にならない圧倒的な実感を、誰もが理解できる文法に則って伝えられるだろうか。言葉にした瞬間に原型を失うような内実を。

こうもいわれるし
またいうことができる、
つまり意識とは
ひとつの欲望、
生きる欲望であると
いうものもあるのだ。

男はついにマイクスタンドを握って持ち上げ、自由に歩き回りはじめた。文法が変わる。

可能性の空間は
ある日私に与えられた
まるで私がひり出す
大きな屁のように
しかし空間についても、
可能性についても、
私はそれが何だかよく知らなかった、
それを考える必要も私は覚えなかった、

アルトーの考えが詩を通じて描写される。男は生き生きと語り続ける。

私の内部の夜の身体を拡張すること、
私の自我の
内部の無の身体
夜であり、
無であり、
無思考であり、
何か置き換えられるべきものが
存在するという
爆発的な確信である
私の身体。

男はマイクスタンドとともに床に倒れ、飛び起きて叫んだ。

Hooooooooooooooooooooooooooo




このパートは終盤になると、アルトーの身体や存在が他者によって脅かされた経験についての記述に移行する。強迫観念となるほどに、アルトーは生きている間、自己の証明を求められ続けていたのだろう。人に分からないことを、人に分かる言葉で伝える必要に迫られ続けていたのだろう。さもなければ人から狂っていると決められ、生命の存続さえ危ぶまれるのだ。

そのときである
私はすべてを爆発させた
私の身体に
人は決して触れることはできないから。

シュルレアリストには、自動筆記を極めすぎて書く言葉が意味不明になった後、窓から飛び降りる者がいたらしい。死のイメージがよぎる。

男は両手を水平に伸ばして宙を見上げてしばらく静止したあと、ゆっくりと回転しはじめる。それから歌うように声を出した。

Hooooooooooooooooooooooo

Hooooooooooooooooooooooo

Hooooooooooooooooooooooo

磔刑されたキリストのように見えた。そう見えてしまったことは、アルトーの主張と矛盾しているのだろうか。

「糞便性の探求」のパートにはこんな描写があった。

(……)キリストという名の男は
神という毛虱を前にして
身体なしで生きることに同意したものにほかならない、

イエス・キリストの人生とカトリックの教えには、重なるところとそうでないところがある。キリスト個人は、肉体を蔑ろにするどころか、ある仕方で体を使って覚醒したという説まであるじゃないか。

アルトーは、自分の体を張って、人類の罪を贖おうとしているようにさえ感じる。

男の動きと声から、そんなことを考えた。




舞台が暗くなって、奥の壁に映像が浮かぶ。公園の様子と環境音に被せて、録音された男の声が流れる。「結論」のパートだ。

――ところでアルトーさん、このラジオ放送はいったい何の役に立ったんですか?

映像の中で、向こうから男によく似た誰かが近付いてくる。ゆったりした褐色の服をまとっている。

――あなたは残酷とは何か、正確に御存じでしょうか。

セピア調に切り替わった画面は、男によく似た誰かが風に吹かれながら、白い柱に囲まれた東屋に座ってぼんやりする様子を映し出している。どこかの公園……のようなのだが、古代ギリシアっぽくも見える、不思議な光景だ。男の前世なのか、夢なのか、別の場所で生きているよく似た誰かなのか。

――私はこの猿とこれっきり縁を切るにはどうしたらいいか分かったといいたいのだそしてもし誰ももう神を信じなくなれば、みんながますます人間を信じるであろうといいたいのだ。

男によく似た誰かは、いつの間にか椅子に昇って猿のように動いている。
しばらくすると画面が切り替わり、どこか部屋の中にいる。頭上から、手元だけ、いろんな角度で大写しになる。

――その身体構造を作り直すため、これを最期にもう一度、人間を解剖台にのせるとき。
私は強調する、その身体構造を作り直すため、と。
人間は病んでいる、人間は誤って作られているからだ。

画面の中には裸の男がいる。うごめきもがく。

人間に器官なき身体を作ってやるなら、
人間をそのあらゆる自動性から解放して真の自由にもどしてやることになるだろう。


そのとき人間は再び裏返しになって踊ることを覚えるだろう。
まるで舞踏会の熱狂のようなもので
この裏とは人間の真の表となるだろう。

映像が流れている時間、本来は見えないはずの光景を覗き込んでいるような気がした。
アルトーが抱いているとおりの実感を持つことはできない。が、人々から理解されない領域の、無言の証拠を見たような気がしたのだ。
どうしてアルトーは、ちょっと人から分かりにくい考えを持っていただけで質問攻めに遭わなければならなかったのだろう。頭がおかしい認定されなければならなかったのだろう。

そういえば、フロイトによる無意識の研究、精神分析学の確立は1890年代以降、映画の誕生・発展と並走していた(そしてこれはアルトーの誕生とも時期的に重なる)。映画の出現によって出現したのは、人間には読めないテクノロジーの文字であった。1秒間に16コマないし24コマの静止画を流すと、人間の目には繋がって動いているように見える。人間の認知能力と機械の性能とのギャップによって、映像は成立している。

テクノロジーの文字は人間の「見えた」という意識を成立させる条件だが、人間が認識できない無意識の領域にある(メディアの「技術的無意識」)。人間の意識が技術的無意識によって作り出されるこうした状況は、映画の誕生以降に特有のものだ。(*3)

人間には読めないテクノロジーの文字には、言語化されないままで説得力を持つという強さがある。映像は、人間の脳が勝手にそうだと認識する幻影なのに。物理的には「動く絵」もテレビの中の小人さんも存在しないのにも関わらず、人は映像を見て「リアル」だと感じ、恣意的に編集されたニュースにすっかり騙されることもある。

ここで流れた映像は、その「非言語を以て真に迫る」性質を活かして、男の、あるいはアルトーの「理解され得ない真剣勝負」を援護射撃しているように感じられた。こういう可能性も見てやってくれないか? と。




男は立ち上がって、「追伸」のくだりを力いっぱい語る。

私とは誰か
どこからきたか
私はアントナン・アルトーである
そして私はそれをいわなくてはならぬ
それをいますぐ
いうことができるからだ
現にある私の体が
破片になって飛び散り
明らかな
無数の側面をあらわし
一つの新しい体が
また凝結する
そのためあなたはもう
決して私を
忘れることができまい。

そんなこと言わなくていいから生きててほしい、と勝手に思った。

男は両腕を伸ばし、ガニ股になってぴょん、ぴょんと飛びながら叫びはじめた。

Hoooooooooooooo

Hoooooooooooooo

それからそのまま出口に向かい、叫びながら四ツ谷の街へ消えていった。

Hoooooooooooooo

Hoooooooooooooo

Hoooooooooooooo









*1:A・アルトー(宇野邦一/鈴木創士)『神の裁きと訣別するため』(2006年7月、河出書房新社)以下、詩の引用は全てここから行う。
*2:同、解説
*3:石田英敬・東浩紀『新記号論』(2019年3月、ゲンロン)

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