「ギーターンジャリ」

坂東 芙三次による連続観劇レポート

ラビンドラナートタゴール「ギーターンジャリ」
2020年3月23日(月)
会場:綜合藝術茶房 喫茶茶会記

青、緑、ピンク、赤、黄色、青、オレンジ、紫。舞台の奥には机や椅子など不揃いな大きさの台がずらりと並んでいて、とりどりの色の布をかけた上に、花びら、バナナ、枝2本、石、ローソク、焼き物の器が載せられている。

けたたましいクラクションがいくつも鳴り響く、雑踏――を思わせる音が空間を満たす(*1)。
オレンジ、紫、黄色、赤、緑、水色。ビビッドな色合いのスウェット生地がパッチワークされたワンピースのような衣裳をまとって、男が現れる。真っ白いストールを首に巻き、眉間から額にかけて赤いメイクを施している。

アラビヤ数字、ローマ字、日本語、コミカルな竜のイラスト。衣裳を構成する生地にはそれぞれ、さまざまな文字や意匠が宿っている。

喧騒のなかをトボトボと歩く、つぎはぎの存在。
男は空間をいっぱいに使って踊り回り、やがて声を発した。

わが頭〔かうべ〕 垂れさせたまへ 君が
        み足の 塵のもと
  わが高慢〔たかぶり〕は 残りなく
    沈めよ 涙に(*2)

『ギーターンジャリ』は、インドの詩人ラビンドラナート・タゴールが1910年代に書いた詩で、「ギータ」は「歌」、「アンジャリ」は「合掌」という意味。
「君」と呼びかけられているのは、詩人の信じる神。具体的にいうと、インド教のうちとくにヴィシュヌ神への信仰が歌われているのだという。(*3)

歌い上げられる敬虔な祈りと、出で立ちのごちゃまぜ感との組み合わせが目を引く。

「矛盾」や「相対化」という言葉で単純に裁断できる光景ではない。両方とも本当だということが、重要なのだと感じられる。広く混じり合いつながった文化を生きる存在であると同時に、おのが身を捧げるほどの信仰を持つ、そういう人間像。

 あなたは私を限りないものにした。それがあなたの楽しみなのだ。この脆い器を、あなたは何度もからにして、またたえず新鮮な生命を注ぎこんだ。
 この小さな葦笛を、あなたは山や谷に持ちまわり、永遠に新しいメロディーを吹いた。
 あなたの手の不死の感触に、私の小さな心臓は喜びのあまりに限度を失い、言いようのない言葉を叫ぶ。




上演に使用された岩波文庫版『タゴール詩集―ギーターンジャリ―』は、「ベンガル語本による韻文訳」と「英語本による散文訳」の2部構成になっている。前者の1篇で口火を切ったあと、語りはしばらく後者を辿っていく。

『ギーターンジャリ』は最初、タゴールの母語であるベンガル語で執筆され、その後、自身の手による英語訳が発表されている。
英語“訳”といっても、原詩の句をそのまま訳した部分は少ない。畳句(言葉の繰り返しによる技法)の省略、インドに特有の要素の置き換えや補足を行い、ヨーロッパ人による鑑賞を前提に編まれた痕跡がみられる。ただ、それらの改変が小さく思えるほどに決定的なのは、原詩において最も重要だと評価されるような詩が大量に、英語本で採用されずに終わっていることだ。

 あなたの限りない贈り物を、私はこのちっぽけな自分の手で受けるほかはない。多くの世代が過ぎ去ったが、あなたはまだ注ぎつづけ、まだ注ぎきれないのだ。

当時、インドはイギリスの統治下にあった。復興への祈りや、祖国が奴隷となったことへの嘆きを歌い上げるわけにはいかなかった。宗教感情や愛国心についても取り除いた。
注意深く編集された英語本はイギリスで高く評価され、発表の翌年にノーベル文学賞を受賞した。

ビートの効いたインド音楽が流れると、男は踊り、ぐるぐる立て続けに回転する。
パッチワークの色が混ざり合って見える。

私をしばる束縛はきつい。しかし断ち切ろうとすると、私の心は痛む。
自由さえあればよい。だが、それを望むのは恥ずかしい。

にぎやかな音楽に乗せて体を動かしながら、男は再び語り始める。
真摯な叫びを聞きながら連想したのは、ボリウッド映画だった。原作を黙読している時には決してたどり着かない光景。陽気な狂騒と厳かな祈りが一つに重なる空間は、一言でいうと、懐が深かった。




私が求めるのはあなただ、あなただけだ――と、このように、私の心はいつまでも繰り返して叫んでいたいものだ。昼も夜も私の心を掻き立てるすべての欲望は真底まで虚偽だ。

男は陶製の器を手に取り、中の水をすくってしたたらせ、音を出す。
詩を語り続けながら、石を握り、ローソクに火を点け、バナナに顔を寄せる。

印象的だったのは、木の枝を両手に携えた時間だ。
枝が振られると、さわさわと葉の音が鳴り響いて、風と、枝を揺らす大木を想起させられる。自然の気配。それから、男は枝をしゃんしゃん激しく振りはじめる。運動会で応援の時に使うポンポンみたいだなと思った。ああ、今目の前にいるのは、世界の応援団、のような存在なのかな。それは俳優の大事な仕事の一つで、今それが象徴的に現れている。そう感じた。

アフタートークの時、伊原雨草氏から「(今回の上演では)“あなた”と呼びかける対象が(インド教の神だけでなく)観客でもあるように感じた」という発言があった。

「俳優は世界の柱だ」という言い方があるが、私個人はそれを「世界のスタッフだ」と読み替えている。俳優は当然、観客に支えられながら人前でパフォーマンスする存在だ。が、それと同時に、現実社会の外側(舞台)に立ち、エネルギー補給、リフレッシュ、体の感覚や発想力を拡張するキッカケの提供などの形で、日常を生きる人々を応援・サポートする可能性を持った仕事だと考えている。

この ばあらた の人多〔さは〕の
  海の岸辺に
    ここに立ち 両の腕〔かひな〕を広げつつ
      われは敬〔ゐやま〕ふ 人なる神を
    こよなく喜び 高調〔たかしらべ〕もて
      拝〔をろが〕みまつる

語りはいつしか、ベンガル語本からの引用に移り変わっている。英語本に採用されなかったこの106番は、原詩における「最大の作品」と言われる。そのスケールは人種を超えて、人間を包み込もうとする。

来〔こ〕よ あありや人 あなありや人
  ひんどぅ いすらむよ
来よ来よ 今は いぎりす人も
  きりすとの徒〔ともがら〕も
    来よ ばらもんよ 心を浄め
      手を取れよ 衆人〔もろひと〕の
    来よ 賤民〔しづのを〕よ 捨てよ
      なべての 侮りを
    母の高御座〔たかみくらに〕 来よ 疾〔と〕く 

男はストールをほどき、パッチワークの衣裳を脱いで、捧げるように床に置く。
それから後ろに並ぶ台にかかったとりどりの色の布を手に取り、肩に掛けたかと思うと床にばらまく。

 私の歌をすべて、そのさまざまな旋律もろともに、ただひとつの流れに集めて、ただ一心にあなたに帰命して、沈黙の海に流したい。
 故郷を慕い、山間の古巣をめざして夜も昼も飛び続ける鶴の群のように、ただ一心にあなたに帰命して、私の生命のすべてを捧げて、永遠の故郷に向かって旅立ちたい。




無情に、というべきか、街の喧騒が戻ってくる。クラクションやざわざわした音が再び空間を満たす。
男は布を床から拾って後ろの台に掛け直し、深く頭を垂れる。これを何ヵ所も繰り返す。
石や枝などももとの場所へ返す。その姿からは虚脱感というか、抜け殻になってしまったような印象を受ける。それからトボトボと歩いて、目の前から去って行った。

その男の名前を誰も知らない、そういう感じで。
(『ピキピキ夏山のドンバラ大放送♡』に続く)








*1:アフタートークでの言及によれば、実際にインドの街角で録音された効果音とのこと。
*2:タゴール(渡辺照宏)『タゴール詩集―ギーターンジャリ―』(1977年1月、岩波書店)以下、詩の引用はすべて同書による。
*3:同、解説および訳註。

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