坂東 芙三次による連続観劇レポート
マヤコフスキー「私自身」
2019年
12月20日(金) 20:00 /21日(土) 17:00 /22日(日)
会場:綜合藝術茶房 喫茶茶会記
黒いコートをひらめかせ、男が颯爽と現れる。動くと何か鈍く光るものが見える。コートの内側とベストに、黒と赤のガムテープで大胆にラインが描かれている。
重心をやや低く保って平行移動しながら、長い手足をズバッズバッと使ってポーズを決めていく。骨太で力強い印象に、コサックダンスを連想させられる。
主題
赤と黒を用いた幾何学的なデザインとともに、「主題」という章題が奥の白壁に投影された。
私は詩人である。私という人物が興味をひくのは、そのことだけだ。だから、そのことについて書こう。ほかのことについては、それが言葉に定着されている場合に限り。(*1)
人が考えを話しているというより、概念が人の形をして喋っているみたいだった。男の語りは登場してから見せた動き同様、迷いがなく、なにか「完全性」のようなものを体現するかのように響き渡る。
『私自身』はロシア未来派の詩人ウラジーミル・マヤコフスキーが、1928年、30代半ばで完成させた自伝的な作品だ。マヤコフスキーはその翌々年、ピストル自殺でこの世を去っている。
記憶力
家族の構成
第一の思い出
第二の思い出
第三の思い出
……
章題がそれぞれに異なるデザインとともに投影されては、男が記述を声にし、次へ進んでいく。子ども時代の断片的な記憶、マヤコフスキーの元に届いた日露戦争の気配や社会主義の波。
一九〇六年
父が死んだ。針で指を刺したのだ。破傷風である。それ以来ピンというものがきらいになった。幸福な時代は終わった。父の葬式のあと、残った金は家中で三ルーブリ。本能的に、熱に浮かされたように、私たちは机や椅子を売り払った。そしてモスクワに引越した。なぜだろう。知り合いがいたわけでもないのに。
こうした箇所でも男の語りはウェットにならず、エネルギーを失わない。
マヤコフスキーは中学校に編入し、他校で非合法雑誌が作られているのに影響されて初めて詩のようなものを書くがうまくいかずにやめてしまう。党活動で三度の逮捕。最後に入った監獄で当時最新のシンボリズムの文学を読み漁った。
記念すべき夜
話し合った。ラフマニノフの退屈から学校の退屈へ、学校の退屈からあらゆる古典の退屈へ。ダヴィドには同時代人を追い越した巨匠の怒りがあり、私には古きものの崩壊の必然を知る社会主義者の情熱がある。ロシア未来派が誕生した。
次の夜
ひるま、詩が一つできた。正確にいえば断片だ。ひどい断片である。どこにも発表してない。その夜のこと。スレチェンスキー通り。私はブルリュックに何行か読んできかせた。そしてこれは友人の作品だと言い添えた。ダヴィドは立ちどまった。私の顔をじろじろ見た。それから大声で、「そりゃあ、きみが自分で書いたんじゃないか! こりゃあ、きみは天才的な詩人じゃないか!」自分のことでこんなに大仰な形容詞が使われたので、私は嬉しかった。そして詩に打ちこみ始めた。その晩、私は全く思いがけなく詩人になったのである。
こうして、マヤコフスキーは詩人になったらしい。
*
冒頭からのスタイルはずっと同じく続いている。赤と黒の幾何学模様と章題が映し出され、男が断章を語る。部屋は薄暗く、スライドの文字と幾何学模様が明るく映えている。男は時に、幾何学模様の円や線に顔を合わせて照らし、私たちに表情を見せる。薄暗がりに沈んでいることもある。
詩人になる。一見、それは「自由になる」選択だ。「自分のことでこんなに大仰な形容詞が使われたので、私は嬉しかった。」とマヤコフスキーは言った。詩を書くことによって何者かになれる。ある種の若者を強烈に鼓舞する発見だろう。ただ、ここには無意識にこう自分を追い詰めてしまう落とし穴がないだろうか。詩を書かなければ自分は何者でもない。
たまたまかもしれないが……章題のスライドで明るく照らされたわずかなエリアに顔を合わせ、喋る概念と化して語る男の姿を見ていると、自分を追い込み、詩人という「形」であろうとするマヤコフスキーの根詰めっぷり、その痛々しさを想像させられた。理想は、細く絞られたごくわずかな領域に限定されている。しかし生は、照らし出されていないそこかしこに、本当は溢れ満ちている。
男は高い声で奇声を上げてひとしきり暴れ回り、そのまま扉を開けて飛び出していった。
マヤコフスキーがこの世を去るのは時間の問題だった。
*1:マヤコフスキー(小笠原豊樹)『私自身』(2017年3月、土曜社) 本稿における引用は全てここから行う。