マチュ・ピチュ山頂

坂東 芙三次による連続観劇レポート

パブロ・ネルーダ「マチュ・ピチュ山頂」

2020年1月27日(月) 15:00   /   19:30 開演
会場:藝術喫茶茶会記

舞台には、立方体の石のブロックが10個ほど、バラバラに置かれている。
ストローハットをかぶり、三角のストールをまとった男が現れる。ドン……ドン……ドン……足音を立てながら、ごくゆっくりと歩き回る。

なんだか旅人のように見える。ただ歩いている、というより、そのゆっくり歩く姿は誰かが人生を前に進んでいるようにも、人類全体が時間を過ごしていることの象徴のようにも見える。
男は歩きながら突然、深く響く声で語り始めた。

からっぽの網のような、空間から空間へと、
わたしは通りを 大気の中をゆき、
木の葉の貨幣を撒き散らした秋の中で、
あるいは春から麦の穂がのびる季節になる頃、
手袋が落ちるせつなのような、みちたりた愛が、
長く光りつづけている月のように わたしたちに与えるものを訪ねては別れてきた。
(*1)

『マチュ・ピチュ山頂』は、パブロ・ネルーダが41歳の時、1945年に書かれた。自身の言葉によればその2年前、マチュ・ピチュ登頂のさいにそこで「生まれた」詩なのだという。

結論を先に述べるなら、それが総合的な作品であるからだろう。つまり叙情性の強い作品からシュルレアリスティックな作品を経て、歴史や政治を意識した叙事的な社会詩へと詩風を変えていくネルーダの詩業における一つの到達点であり、彼が実際に辿ったマチュピチュ登頂の道程にそれまでの詩的道程を重ねた上に、自身の半生のパノラマにもなっているという重層性を備えているのだ(*2)

この作品が傑作とされる理由について、ある本にはこう解説されていた。

それから わたしはさまよった
道から道を 川から川を、
街から街を ベッドからベッドを、
わたしのしょっぱい仮面は砂漠を横切り、
最後の辿りついた ランプも、火も、パンも、
石も、静けさもない、つましい家で、ひとりぼっちのまま、
自分自身の死をころげ落ちていたのだ。

ネルーダはチリの詩人で、詩を新聞に発表したのは13歳の時。19歳で第一詩集を出版している。20代から外交官としてアジア各地、のちにヨーロッパ各地を遍歴した。1936年、32歳の時、スペイン市民戦争に関わったことで政治に傾倒。前年に任命されたマドリッド領事職を解任されている。1943年、当時就いていた駐メキシコ領事職を辞してチリへ戻る途中に立ち寄ったのが、古代都市マチュ・ピチュの遺跡だった。(*3)




足元にある石の一つを片手でつかみ上げ、男は力強く語る。かつて命だった物質の塊と、今生きている命が向かい合う。

そんなとき わたしは忘れさられていた密林の獰猛な茂みをかきわけて大地の梯子を登ったのだ
おまえの許まで、マチュ・ピチュよ。
石また石をよじ登ってゆく空中都市、
大地が眠りこんだ衣装の中に
ついに隠しきれなかった者の住処。
おまえの中で、二本の平行線のように、
閃光の源と人間の源が
刺ある風にゆれていた。

ネルーダが訪れた当時、鉄道の駅からマチュ・ピチュへの間にはまだ道が整備されておらず、馬で登ったらしい。19世紀初頭に発見されるまで、その地は約500年の間、“失われた都市”だったのだという。(*1)

だが 石とことばは不変。
鉢のような都市がつくられたのだ
生者、死者、黙している者、耐えしのんでいる者たちすべての掌に
多くの死によってできた、壁、多くの生命によってできた
石の花びらの衝撃。永遠の薔薇、住居。
氷塊が群れなした このアンデスの岩礁。

マチュ・ピチュで啓示を受けたネルーダは『マチュ・ピチュ山頂』を生み出し、その後『マチュ・ピチュ山頂』をその一部とする詩集『大いなる歌』(原題からすると「万物の歌」と訳すのが適当らしい)を完成させた。この詩集では、アメリカ大陸の森羅万象を歌い尽くし、自然と一体化することが試みられている。(*3)

男は体をうごめかせながら詩を語っていく。石の群れから、その場所からネルーダが感じ取って残した言葉。ネルーダはどんな感覚でそこに立ち、何を見聞きしただろう。そんなことを自然と想像させられる。




ところで、「石とことばは不変」とはどういう意味だろう。というのも、ここに都市を築いたインカ帝国には、文字がなかった。だから、その歴史についてはよく分かっていないことが多い。無文字社会にだって口承文芸というものは存在するが、その土地に生きる人がいなくなれば、継承は途絶すると考えるのが通常だろう。文字を持たない国の跡地に立った時、「石とことばは不変」とは何を意味するのか。

男の語りとともに時折、鳥の声や、キーンと響く耳鳴りのような音、風のうなり声が聞こえる。

おお、響きあういく条もの糸からなるウィルカマユよ、
おまえがそのいくつもの帯状の轟きを
傷ついている雪のような、白い泡に砕くとき、
おまえの切り立った断崖の送り出す疾風が
うたいかけ 弄んで 空を目覚めさせるとき、
アンデスの泡の中から 抜き出されたばかりの耳に
どんなことばで話しかけるのか?

「ことば」と訳されている“palabra”は、「言葉」「単語」「語」「言語」「アルファベット」の他、「話」「声」「誓約」の意を持つらしい。

ここで一つ思い浮かぶのは、ネルーダがこの地に立って何らかの「ことば」を“聞”くことができたとすれば、かつての住人たちが接していたのと同じ記憶の集積、いわばその土地のデータベースにアクセスできたのかもしれない、ということだ。

当然、たやすいことではない。ネルーダは読み書きを知ってしまっている、生活様式が昔の人々と異なれば世界の認識には大きな差があるし、何より当時のインカ帝国に暮らし、その社会の不文律を共有していたわけではないのだから。


覚えているだろうか、携帯電話が普及したての頃、通話中の音声が不安定になるのは都市部でもよくあることだった。相手の声は切れぎれになったり、くぐもったり、雑音にかき消されたりし、途中で勝手に通話そのものが切れることさえあった。よほどの適性のある人は別として、現代人の、しかもビギナーが「ことば」を“聞”こうとするとは、ちょうどそういう感じの通信品質と向き合う作業だ。

そういう条件下だから、聞き取った(と感じられる)内容に憶測や思い込みや空想が混ざることは想定内だ。で、仮に聞き取り内容「全て」を「妄想」だと断じるためには、インカ帝国の謎を確定的に解き明かすか、ネルーダより高音質で“聞”けるようになるか、いずれかが「必須」作業になることだけここでは指摘しておこう。




「石とことば」というとまるで「石」と「ことば」が別々の要素のように感じられる。が、二つが密接に関わりあっているとしたらどうだろう。

紀元前1,000年頃を境にして、文字の発達とともに人類は神々の声――現代的に言えば幻聴――を聞くのが困難になったとする論がある。聞こえにくくなってきた時期に工夫された方法の一つに、風の強い洞窟や山奥の水辺など、声が聞こえやすい場所の探求がある。平たく言えば、聖地だ。

単に気分的な問題ではない。明るさや湿度などの要素もあるにせよ、少なくとも、それらの場所で絶えず鳴っている音が重要で、一定の集中をしながらその響きの中に身を置くことで、声を“聞”くことのできた時代があったというのだ。(*4)

どこでもよいわけではない。訪れる洞窟によって、滝壺によってそこに鳴り響く音は異なる。場所によって空間の形態が違うからだ。形は何によって決まるか。自然。地形。つきつめると、石、じゃないだろうか。石がどう立ち並びどう塊を成しどんな空間を作っているかに、自然音がどれくらいの質で幻聴を支えてくれるかは左右される。それぞれの場所は、言うなれば、石でできた楽器のようなものだ。

マチュ・ピチュは遺跡だから、かつて人が住んでいた時と全く同じ都市ではない。その代わり、住処としての機能を失って久しく、石の並びだけが残って形のみになったその場所は、日常性を剥奪されて聖地の趣を持っていただろう。石と向かい合い、風に耳を打たれたなら、いろいろ聞こえたとしてもおかしくない、本人も「啓示を受けた」と書き残しているらしいし……と思う。

マチュ・ピチュで鳴り響く風の音がどんなものなのか、そもそも風が吹いているのか、私は知らない。少なくともこの上演では、語る男とともに鳥の声と耳鳴りのような音と、風の音が響いていた。それで、いろいろとこんな連想をした。




兄弟よ、登っておいで わたしといっしょに生まれるために。
おまえの苦しみがちらばっている
深い地層から その手をわたしに差しのべよ。
おまえは岩の底から戻ってはこない。
おまえは地下の<時>から戻ってはこない。
おまえの涸渇してしまった声は戻らない。
穴のあいてしまった眼は戻らない。

男は点在していた石を動かし、円形に並べていく。
三角のストールを体から外し、円の内側に敷く。
白い薄布でできた上下だけをまとった男は、かつてここで暮らしていた誰か、のように見え始める。

マチュ・ピチュの印象について、ネルーダはこんなことを書き残している。

私はその頂から、緑のアンデス山脈の聳え立つ峰々に囲まれた昔の石の建造物を見た。幾世紀の歩みにむしばまれ嚙りとられた城壁から、奔流が幾つも転がり落ちていた。白い霧の塊が幾つもウィルカマヨ川から立ち上った。私はあの石の臍の真ん中で自分を無限に小さく感じた。人の住まない誇らかな高い臍。いわば私はその一部になっていたのだ。あの遠い昔のある時期に、私自身の手が働いて溝を掘り大きな岩を磨いたことがあるように感じた。(*5)




「石とことば」の関わりについて考えたことの中から、もう一つだけ寄り道で紹介したい。

認知神経科学の分野で有力とされている仮設によれば、ヒトはみな同じ文字を使っている。なぜなら、ヒトは言語の違いに関わらず、自然の中に現れる「形態」の出現頻度を真似るようにして文字を作っている、からだ。

景色とは、多数の要素が織りなす複雑なものだ。しかし、私たちは、物の輪郭や奥行を無意識のうちに解析し、空間を把握することができる。物の輪郭や、物と物が重なっている時に見える線のパターンは有限で(たとえば“T”“X”“L”“K”などに似た類型的なパターンを見出すことができ)、36種類にまとめられる。驚くべきことに、自然界や都市、あらゆる場所の風景における36パターンの出現頻度と、地球上のさまざまな言語の文字における同パターンの出現頻度は、同じように分布することが発見された。(詳しくは*6を参照されたい)

ここからは私の想像に過ぎないのだが……このことは、「この場所に生まれたことがあるような気がする」とか「来たはずのない場所で来たことがあるように感じる」とか「よくわからないがこの場所に来たら涙が出た」というような、説明のつかない現象の手がかりになるのではないか、と思う(デジャヴュの詳細な分類については、ここで立ち入っている余裕がないが)。

というのも、脳科学の研究によれば、文字を読む時、人は景色を解析する時と同じ脳の領域を使っている(*6)。だとすると、人間は、(言葉に出来ない言語で)景色というテキストを読んでいるのではないか。この場合、石が作り出す形態は、マチュ・ピチュ遺跡というテキストのボディ。文体だ。自然と文字は対立しない。石とことばも対立しない。石がことばを形成する。石とことばは不変だ。

そして わたしを泣くがままにしてほしい、いく時間も、いく日も、いく年も、
ひたすら いく時代ものあいだ、星が輝きつづけるいく世紀ものあいだ。

通常は言葉に出来ない言語で読んだ景色、聞いた声を、どうにか言葉に変換しようとする人がいる。ネルーダはその一人だったのではないかと想像する。




男は正面を向き、両腕を横に伸ばし、ゆっくりと片足を持ち上げて振り下ろす。続いて反対の足、また反対の足。土俵入りを連想させるような動きだ。ドン……ドン……ドン……

わたしに与えよ 沈黙を、水を、希望を、
わたしに与えよ 闘争を、鉄を、火山を。
磁石のように その肉体を密着させよ。

ゆっくりした足音が、冒頭の印象とリンクする。歩く、生きる。それ自体が祈りであることを伝えているかのようだった。

わたしの血管に わたしの口に馳せつけよ、
わたしのことばとわたしの血をとおして 語りかけよ。

男は入ってきたのと反対の扉から出て行った。舞台を、上演時間いっぱいかけて通過していったかのように。マチュ・ピチュが、ネルーダにとって重要な通過点だったように。






*1:パブロ・ネルーダ(田村さと子)『マチュ・ピチュ山頂』(1997年8月、鳳書房)以下、詩の引用は全てここから行う。
*2:パブロ・ネルーダ(野谷文昭)『マチュピチュの頂』(2004年11月、書肆山田)
*3:パブロ・ネルーダ(松本健二)『大いなる歌』(2018年9月、現代企画室)
*4:ジュリアン・ジェインズ(柴田裕之)『神々の沈黙――意識の誕生と文明の興亡』(2005年4月、紀伊國屋書店)
*5:パブロ・ネルーダ(本川誠二)『ネルーダ回想録*わが生涯の告白』(1977年2月、三笠書房)
*6:石田英敬・東浩紀『新記号論 脳とメディアが出会うとき』(2019年3月、ゲンロン)

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