「李庚順」

Photo by 小杉 朋子

坂東 芙三次による連続観劇レポート

寺山 修司「李庚順」
2020年2月15日(土)
会場:綜合藝術茶房 喫茶茶会記



舞台奥の壁には、赤い着物が吊り下げられている。

男が現れる。ツーブロックの髪に、開襟シャツ、砂色のパンツ。レトロで爽やかな出で立ちなのだが、シャツとパンツは青黒い液体を浴びたかのように、まだらに染まっている。それは青い血液なのか、ブルーブラックのインクなのか。

男は、苦しみもがくように激しく動きはじめる。腕をぎゅんぎゅんに突っ張らせたり、ぐるっと回ったり、舞台を縦横に移動したりする。
それからふいに語りはじめた。

ほかのひとの心臓のありかなら知っています
そいつは胸にある――万人周知の事実です
しかしぼくの躰では
解剖学の気が狂った
どこをとっても心臓ばかり
いたるところで汽笛を鳴らす
(*1)

寺山修司の『叙事詩 李庚順』は、冒頭にこのマヤコフスキーの詩を引用することからはじめられている。
続いてプロローグでは、庚順の母親の出生から現在に至る家族の歴史を物語る。

大正二年七月、北海道空知郡。女中が大地主に強姦されてできた娘ヨシは、苦労して成人した後、二十三歳で李清成と結婚、昭和十二年に庚順を生んだ。その後、夫は大戦で召集されて戦死。ヨシは庚順とともに青森へ移り、息子が小学校から中学校へとすすむあいだ本屋の二階へ下宿させ、自分は大三沢の進駐軍ベースへメイドとして就職、娼婦をも兼ねながら稼ぎ、せっせと貯金した。
庚順が中学を出て映画館に就職したのを機にヨシは大三沢から引き揚げ、二人で水いらずの生活をはじめる。

しかしある日、なぜか李庚順は映写技師仲間の瀬川にこう言ったのだ
「おれ、母親を殺そうと思うんだ」

突然音楽が鳴り響くと、男は再び激しく踊り回った。




巨人の腸詰のようなサンドバッグがたった二本
縄とびの縄と パンチングボールが一台
これでも闘拳倶楽部だ
こんなところでトレーニングしたって強くなんかなれやしない
汗をかくだけだ
おれは二十貫もあるんだから
ライセンスさえとれれば最初のヘヴィ級ボクサーになれるんだからな

李庚順は中学生の時からボクシングのジムに通っていた。

おれはここにいるが
心はここになく 東京にいる
東京へ! 東京へ!
錆色の鉄路を北から南へ
アメリカ人の基地を通りこし
さびれた平野を越えてさびしいハーモニカが魂の唄をうたう
古めかしい二百の停車場をこえてゆこう
東京へ! 東京へ! 東京へ!

東京でボクサーになるという夢を持っていた。

とにかくおれは来月汽車に乗る
その汽車の汽笛の意味を
あんたがたはどこの国の言葉にも訳すことはできないだろう

音楽が鳴り響くと、男は再び踊りはじめた。
李庚順が心の中で自分だけに見せる、あるがままの姿のように。
汗をかくほどに、青黒い斑点が溶け出して、真っ白かったシャツをじわじわと染めていく。

李は帰って
母親のヨシとたった二人の夕食を済ますとすぐ床に入る
東京へ行きたい
と思いながら
自分の心臓の部分にそっと手をあててみると
その最初の動悸なのか
ひどくけたたましい音がする
おれの心臓は さみしいひろいボクシングジムだ
誰もいないのにサンドバッグだけが唸っている




あの子はなぜあたしのことを
「お母さん」と呼ばずに「あなた」と呼ぶのかしら
あの子はあたしをもう愛してはいないのかしら
ねえ、なぜかしら
なぜかしら
なぜかしら

男は舞台奥に吊るされていた赤い着物を羽織り、なよなよした様子で語りはじめる。

ヨシにはさみしい日が続いた
庚順が目の前にいるときにノックしてみても
 彼のこころはいつも不在なのだった
母親のヨシにしてみれば、李庚順が何を考えているのかよく分からない。
もしも罰というものがあるのならば
それを受けるのはむしろ息子の方ではないのか
庚順の帰りが遅いと言ってあたしが不満をのべるのは
一緒に食べるために作った味噌汁や煮物がさめるからであって
それはむしろあたしの思いやりのあらわれなのだ

李庚順ならずとも、たしかにこのお母さんは重たいかもしれない。
シャツの斑点から溶け出した色素が、赤い着物の内側に青い染みを作っている。

あああなた
血のこびりついた挽肉機をまわして
夢で犯した禁忌を醒めてからいつも償おうとするあなた!
畳のへりに口づけて崇め崇める幻の
祭壇もたぬあなた!
たくあんくさいシュミーズ 陰毛からめて腹たるむ
文無し能無しのあなた!
涙うかべて蠅叩き、日中戦争の写真焼き
共産党ともかかわらぬ
口臭つよいあなた!
郵便貯金もすりきれて 悪夢の滓を舐めている
小学校出のあなた!

これまで、どちらかというと客観的に受け止めていた李庚順の思いに、不思議と共鳴を感じたのがこのくだりだった。

男が発する「あなた」という力強い叫び。
憎悪は、関心や執着、あるいは依存と不可分だ。
庚順は母親を許せない。無関心になれない。




李はガス栓をひねった
頭蓋のようなガスレンジが唸りだした
ゆるやかに悪臭が四畳半を充たしはじめた
李は立ったまま、眠っている自分の母親を見下ろした
ヨシはかわいた赭茶けた髪に顔をうずめて口をあけたまま眠っていた

アフタートークの質問タイムで、客席から「母親を殺す必要あったのかな、と思って」という発言があった。

おれは見てやる!
母親が死ぬのを見てやる!
ガスがしだいに煙幕のように四畳半に充ちはじめた 李は
ヨシが息苦しそうに何か言うのをきいた
李は咳が出そうになるのをこらえ その母親のヨシの言っていることばを聞いた
聞いてみるとそれは
李の名であった

それはもちろん、もっともな意見にちがいない。

やがて李は息苦しさから四畳半を出て、階段を駆け下りた




ヨシの死まで、男は人を殺すほどの憎悪とエネルギーをたぎらせて体を動かし、語ってきたように思う。通常、それは常軌を逸した精神状態、だと人に思われるものなのだろう。
そして犯人は、殺すことが葛藤を解消するゴールだと思っているだろう。
けれど、本当に様子がおかしいなと思ったのは殺害のあとだった。妙におとなしいけれど目が据わっている。

海鳴りはしても何も言わない
まっ赤に錆びたジャックナイフが
いとしいよ
俺もここまで泣きに来た
同じおもいの旅路の果てだ……

男は歌いながら、赤い着物を引っ掛けた椅子を両手で持って歩き回る。母親をお姫様抱っこしているように見える。

それから着物を仰向けに床に広げた。

李は、死んだ母親が椀に飯を盛り続け、暗闇を飯の白い山で充たしていく夢を見る。そこで、母親を追い出すのでなく夢そのものに斧の一撃を喰わせなければならないのだと悟る。

すべては夢だ
現実だと思いこんでいたすべてのことは夢であり 夢だとしか思いようのなかった脱出がいまは現実なのだ

李が東京への出発を決意するくだりで、男は赤い着物をつかんで首にかける。格闘家が真っ赤なタオルをそうするように。
母親という束縛から逃れるために殺したはずだったのに、わざわざ東京へ向かうときに自ら肩に担ぐのはどういう了見なのか。




人が亡くなると、後には記録と思い出だけが遺される。その現象を悲しむか喜ぶかは場合によってさまざまだ。が、実際には、ほんのわずかにせよ両方入り交じっているのが生き残った人の心情というものではないかと思う。

顔を合わせればいがみ合うしかなかった相手でも、不在になれば、慕うことが容易になる。ここにはもう、亡くなった人への解釈しか残らない。死者になるとは、フィクションになることだ。切実だがめいめい勝手なフィクションに。

「母親を殺す必要あったのかな」という客席からの発言には続きがあった。「愛だとしても、それは歪んだ愛じゃないかな」

もちろん、こうした作品で描かれる母とは現実の母ではなく自立を妨げる母性なるもの全般の負の側面の象徴なのだ、とか、イエの束縛が云々とか、共同体を出て、という話はあると思うのだが、そうした知的忖度みたいなものにだけかかずらわっていると、一方で見逃してしまうことがある。

衣裳の富永さん曰く、男のシャツを染めている青黒い液体は、「青い血」なのだそうだ。
寺山が原稿を書くとき何を愛用していたかは知らないが、私はどうしてもブルーブラックのインクを連想した。作家の血。殺したいから書くのか、書くための生贄に殺すのか、それはどっちなのだろう。

さらば母よ!
さらば母よ!

男は語り終わると去って行った。舞台に残されたのは、熊の剥製でできた敷物のように床にうつ伏せに広げられた赤い着物だった。






*1:「叙事詩 李庚順」、寺山修司『寺山修司詩集』(1993年7月、角川書店)。以下、詩の引用は全てここから行う。

コメントを残す

WordPress.com で次のようなサイトをデザイン
始めてみよう